夢野久作

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)塵《ちり》
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 塵《ちり》だ。塵だ。おもしろい、不可思議な、無量無辺の塵だ。
 大空を藍色に見せ、夕日を黄金色に沈ませ、都大路の色硝子に曇って、文明の悲哀を匂わせる。
 広大な塵の芸術だ。
 深夜の十字街頭に音もなく立ち迷うて、何かの亡霊に取り憑かれたかのように、くるくるくると闇黒の中に渦巻き込む塵の幾群れが見える。それはちょうど古い追憶の切れ目切れ目に、われともなくわれ自身を逃れ出して行く、くるしみの幾群れに見える。
 モノスゴイ塵の象徴力である。

 店の先に並んでいるいじらしい果物たちの上から、その並んでいる事が罪悪であるかのように、白い塵がコッソリ蔽い冠さって来る。そのマン丸い、うるうるした瞳と新鮮な頬の輝やきを曇らせて、はかなくも白け渡った投影を仄めかす。ことさらに瓦斯の灯の青ざめ渡る夏の夜になると、それらの水々しい処女と童貞たちの臍の中を、一つ一つ灰色の垢に埋めて、さもなくとも明け易い夜もすがらを、おのがじしに咽《むせ》び歎かせるのだ。
 意地の悪い、痛々しい塵の戯《たわむ》れではある。

 塵は都会の哀詩である。
 構い手のない肺病娘のホツレ毛に引っかかって、見えるか見えないかにわななきふるえつつ、夢うつつのように紅い紅い血を吐き続けさせ、旧教会のステインドグラスに這い付いて、ありがたいお説教の余韻を薄曇らせ、聖書の黒い表紙の手ざわりにザラめいては、祈る者の悲しみをためらわせる。
 貴人の自動車を追いかけたあとで、すぐに乞食老爺の喘息に襲いかかり、さらに、病院のカアテンから忍び入って、患者が忘れて行ったヒヤシンスの萎れ花に寄りたかり、いつの間にか応接間の油絵の額縁に泌みにじんで、美しい表情を疲れ弱らすかと思えば、又もや、遠い銀座の百貨店の前を慌しく走り過ぎて、めんくらった虚栄の横顔たちを真剣な形に引き歪める。何という皮肉な塵の思い付きであろう。

 塵は又、田園の挽歌だ。
 ある時は、眼に見えぬ魂か何ぞのように、ズルズルズルと音を立てながら麦打ち場から舞い上って、地続きの廃業した瓦焼場から、これも夜逃げをした紺屋の藍干場へかけて狂いまわり、又は、森の中に立ちあらわれて、見る人も聞く人もない淋しい、悲しい心を、落葉と共に渦巻き鳴らしつつ暗い木立の奥に迷い込んで行く。
 又
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