ッタリと胸の上に押え付けている姿が、たまらなくイジラシイものに見えましたが、その黒い髪毛《かみ》の前の方を切り下げている恰好がドウ見ても西洋人とは思えません。支那人か日本人に相違ないんで……。
 そう思っている中《うち》に菜ッ葉服の大男が、カント・デックに腮でシャクられると直ぐに一つうなずいて菜ッ葉服の袖口をマクリ上げて、あっし[#「あっし」に傍点]の太股《ふともも》くれえある毛ムクジャラの腕を二本、突出しました。その熊みたいな手で何の雑作もなく女の手を解《と》かせて、シッカリ握っている右手を開かせますと、中から見覚えのある台湾館|備付《そなえつ》けの桃色の支那便箋を幾つにも折ったものが出て来ました。そのレターペーパの折り目を拡げたやつを受取ったカント・デックは、あっしの鼻の先にブラ下げて見せながら、今一度ニコニコと笑いました。赤チャンをあやすような顔で、あっしの顔を覗き込みましたがね。
 それは筆と墨で書いた立派な日本文でした。多分、台湾館の事務室に在った藤村さんの硯箱《すずりばこ》を使ったものでしょう。昔の百人一首に書いて在るような立派な文字でしたがね。
「チイちゃんと一所に出かけてはいけません。チイちゃんは支那人です。亜米利加のギャングの手先です。わたくしはチイちゃんと一緒にギャングのメカケになった、かわいそうな日本の女です。あたしの事を日本の両親につたえて下さい。
[#地から11字上げ]天草|早浦《はやうら》生れ
  ハル吉親方様[#地から2字上げ]中田フジ子より」
 その死骸がフイ嬢《ちゃん》の死骸だとわかると、あっし[#「あっし」に傍点]は何かしら叫びながら飛び付こうとしたように思います。今までに無い力が出たので、あぶなくデックを振り離すところでしたが、そのあっし[#「あっし」に傍点]の左の手首をガッシリと掴み止めたデックは面と向って立ちながら今一度ニヤニヤと笑って見せました。
「わかりましたか。仕事しますか」
「何をッ」
 とか何とか怒鳴ったように思います。だしぬけに思いがけない力が出たもんで、鉄の噛締器《バイト》みてえなデックの手を振放して、火の玉のようになって相手に飛びかかろうとしましたが間に合いませんでした。背後《うしろ》から菜ッ葉服の男に息の詰まるほどガッチリと抱きすくめられちゃったんです。そうして犬ころでも棄てるように軽々とデックの夜会服の腕の中へ投渡《なげわた》されちゃったんです。
 あっし[#「あっし」に傍点]を受取ったデックは喰い付いたり引っ掻いたりするあっし[#「あっし」に傍点]の手と足を背後《うしろ》から束《たば》にしてギューと掴み締めてしまいました。それから何か英語で二言三言云ったと思うと毛ムクジャラの菜ッ葉服が、トロッコの上の女の身体《からだ》を抱き上げて、何の雑作もなく傍の肉挽器械の中へ投込みました。
 ……ヘエ。その時に肉挽き器械の中から聞えて来た恐ろしい声を、あっし[#「あっし」に傍点]は一生涯忘れないでしょう。フイ嬢《ちゃん》はまだ生きてたんです。多分、日本人のあっし[#「あっし」に傍点]を救《たす》けるためにギャング仲間を裏切った廉《かど》で、デックの配下《てした》に拷問されて気絶していたものなんでしょう。
 あっし[#「あっし」に傍点]もそのまんま気絶していたようです。

「じゃぱん、がばめん、ふおるもさ、ううろんち、わんかぷ、てんせんす。かみんかみん」
 てお呼び声がどこからか聞えるように思ってフイッと眼を開《あ》いてみるてえと、コンクリート作りの馬|小舎《ごや》みてえに狭い藁束《わらたば》だらけの床の上へ投げ出されているのに気が付きました。
 片隅の扉《ドア》の前に置いて在る汚いバケツの中を這い寄って覗いてみますと、ジャガ芋と肉のゴッタ煮の上にパンの塊《かた》まりと水と、牛乳の瓶が投込んで在ります。……つまり何ですね。まだあっし[#「あっし」に傍点]を殺す気じゃなかったのでしょう。あわよくば仲間に引っぱり込んで仕事をさせる気でいたのでしょう。
 しかしあっし[#「あっし」に傍点]は助かったのが嬉しくも悲しくも何ともありませんでした。今から考《かんげ》えてみるとあの時はヨッポド頭が変テコになっていたんですね。やっぱり地球|癲癇《てんかん》の続きだったかも知れませんでしたがね。自分がどこに居るやら、どうなっているやらわからないまま、眼が醒めない前《めえ》から続けていたらしい譫言《うわごと》を、そのまんま云いつづけておりました。
「じゃぱん、がばめん、ふおるもさ、ううろんち、わんかぷ、てんせんす。かみんかみん」
 と繰り返し繰り返し大きな声で云ってたようですが、口癖ってものは恐ろしいものですね。
 ところがこの御祈祷の文句のお蔭で、無事にこうやって日本に帰ることが出来たんですから、人間の運てえものはドコまでも不思議なもので……ヘエ……。

 博覧会の方では大騒ぎだったそうです。あっし[#「あっし」に傍点]と二人の女がダシヌケに行方不明になったてんで警察に頼んだり何かして騒いだそうですが、わかる気づかいはありませんや。気の毒なのは藤村さんで、あっしの代りに礼服《フロッキ》を着て台湾館の前に立たされて、代りが出来るまでノスタレ爺《じい》と一所に「わんかぷ、てんせんす」をやらされたもんだそうで、二三日やってる中にお尻のポケツへジャラジャラ銀貨が溜まったのはいいが、声がスッカリ嗄《か》れちゃって電話にかかれなくなっちゃったそうで……無理もありませんや。木遣りなんか唄ったこたあねえんですからね。おまけに怒鳴りながらも、ずいぶん気も揉《も》んだそうですからね。……多分あっし[#「あっし」に傍点]が二人の女を誘拐《かどわか》したんだろうテンデ、あべこべに世話あした支那料理店《しなりょうりや》から台湾館が損害を取られそうになっちゃったそうで……大工の治公《はるこう》って奴はソンナ大それた人間じゃねえテンデ藤村さんが一生懸命、頑張ってくれたそうですがね。
 そのうちに聖路易《セントルイス》の何とか云いましたっけが、目貫《めぬき》の通りに在るホテルの七階の屋上に夜遅くなってから幽霊が出る。そいつがドウヤラ新聞に出た台湾館の行方不明の客呼び男らしいていう噂がホテルのお客さんたちの間に立ち初めました。馬鹿馬鹿しい怪談《おばけばなし》ですがね……治公《はるこう》がまだチャント生きているのに幽的《ゆうてき》が出る筈はないんですが、毛唐って奴は元来ゾッコン怪談《おばけばなし》が好きなんだそうで……つまらねえものを怪談《おばけ》にしちまう癖があるんだそうですが、そんな噂がどこともなく散り拡がって行く中《うち》に運よくギャング連中の耳に這入らないまに、藤村さんの耳に這入ったもんです。
「貴女《あなた》……お聞きになりましたか、あのホテルのお化けの話を……」
「イイエ。まだ聞きませんわ。聞かして頂戴」
「一週間ばかり前からの事です。真夜中の二時頃……電車の絶《と》まる頃になるとあのホテルの屋上庭園のマン中に在る旗竿の処へフロッキコートを着た日本人の幽霊が出るんです。ホラ直ぐそこに若いスマートな男と、赤っ鼻の禿頭《はげあたま》が立っているでしょう。あの通りの姿で幽霊が出て来て、あの通りの事を云うんだそうです」
「アラ怖い……ホント……」
「ホントですとも……それがあの新聞に出た行方不明の……ホラ……ずっと前に来た時にあすこに立っていたでしょう。ミスタ・ハルコーっていうあの男の姿にソックリなんだそうです」
「まあ……ホテルじゃ困っているでしょうねえ」
「ところが反対《あべこべ》ですよ。お蔭で屋上庭園に行く者は一人も居なくなった代りに、その声を聞きに行く者であのホテルは一パイなんだそうです。警察ではまだ知らないそうですが、あの日本人の行方不明事件はあのホテルと台湾館とが組んでやっている日本人一流の宣伝方法に違いないってミンナ云っておりますがね」
「シッ聞えるわよ。日本人に……」
「ナアニ。彼奴《あいつ》等は英語がわかりやしません。暗記した事だけを繰り返している忠実な奴隷なんですから……」
 こんな話を入口の近くの卓《テーブル》でやっているのを小耳に挿んだ藤村さんが、指を折って数えてみると、ちょうどあっし[#「あっし」に傍点]が行方不明になってから八日目だったそうです。
 藤村さんは西洋通ですから直ぐにピインと来たんでしょう。直ぐにその晩ホテルへ泊って、夜中の二時頃コッソリと屋上庭園へ来てみると世にも哀れっぽい微《かす》かな微かなあっし[#「あっし」に傍点]の声で、
「じゃぱアーん。がばアーンめんとオー。ふおるもっさあアー。うう……ろん……ちいイイイ。わんかぷう……ウ。てんせえんすう――ッ……」
 てやっているんだそうです。そこで藤村さんは胸をドキドキさせながら抜き足、さし足その声の聞える方に近付いてみると、その声の主は屋上庭園のどこにも居ない。その向い側のメイ・フラワ・ビルデングの七階の片隅に在る真暗な小窓の中から聞えて来る事が、夜が更けて来るにつれてハッキリとわかって来た……というんです。
 しかし亜米利加通の藤村さんは決して慌てませんでした。何喰わぬ顔をして翌る朝、台湾館へ帰って来ると直ぐに華盛頓《ワシントン》の大使に頼んで、紐育《ニューヨーク》のプレーグっていう腕っこきの警察官に頼んだものだそうです。
 ちょうどそのプレーグっていう警察官は一生懸命になってギャングの巣を探していたところだったそうで、早速|紐育《ニューヨーク》の警視庁へズキをまわして取っときの刑事や巡査を借りて聖路易《セントルイス》へ乗込んで、土地の警察へも知らさないようにメイ・フラワ・ビルの様子を探ると、出入りする奴はみんな変装した前科者ばかりなんで、イヨイヨそれと目星を附けて水も洩らさねえように手配りをきめた二十人ばかりのプレーグの配下《てした》が、アッという間もないうちにメイ・フラワ・ビルの地下室から七階まで総マクリにしてしまいました。双方とも怪我《けが》人や死人が出来たりして一時は戦争みたいな騒ぎだったそうですが、あっし[#「あっし」に傍点]はチットも知りませんでした。そこから抱え出されて聖路易《セントルイス》の市立病院の病床《ベット》に寝かされても相も変らず「わんかぷ、てんせんす」をやっていたそうです。
 ……ところで、まだ話があるんです。これからがホントに凄いんですね。

 あっし[#「あっし」に傍点]があらん限りの注射と滋養物のお蔭で、やっとモトの頭になって退院させられた時はもうユーカリの葉が散っちゃった秋の末で、博覧会なんかトックの昔におしまいになっておりました。退院すると直ぐに警察に呼び出されて、ほんの型ばかりの訊問を通訳附きで受けますと、領事さんからの旅費を貰って桑港《シスコ》から日本へ帰りましたが、その途中のことです。たしか出帆してから十日目ぐらいのお天気のいい朝でしたがね。あんまり航海《ナベゲタ》が退屈なもんですから、眼が醒めても起き上る気がしません。そのまんま特別三等《とくさん》の寝床の中で足をツン伸ばしてアーッと一つ大きな欠伸《あくび》をしたもんですが、そのトタンに桑港《シスコ》で知り合いの領事館の人からお土産に貰った小さな紙包みのことを思い出しました。ハテ何だったろうと思いながら、寝床の下のバスケットの中からその紙包を取り出して開けてみると、どうでげす。それが平べったいソーセージの缶なんで……。
 コイツは占めたと思って飛び起きると、食堂から五十二|仙《セント》の日本ビールを一本買って来て、ベットの上にアグラを掻きながら、缶の蓋を開けて、美味《うま》そうな腸詰《ちょうづめ》の横ッ腹をジャクナイフで薄く切り初めたもんですが、その中《うち》に何やらナイフの刃《は》に搦《から》まるものがあります。……ハテ……おかしいなと思いながら、そのナイフの刃を暗い窓あかりに透かしてみるとソイツが黒い女の髪の毛なんで……あっし[#「あっし」に傍点]はドキンとしましたよ。それでもマサカと思いながら今のソーセージの切口をよく見
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