たんで……実際眼が眩《くら》んじまいましたよマッタク。いい芳香《におい》が臓腑《はらわた》のドン底まで泌《し》み渡りましたよ。そうなると香水だか肌の香《におい》だか解かれあしません。おまけにハッキリした日本語で、
「まあ……よく来てくれたねえ、アンタ」
と来たもんです。
トタンに前後の考えなんか、笠の台と一緒にどっかへふッ飛んじゃいましたね、キチガイが焼酎《しょうちゅう》を飲んで火事見舞に来たようなアンバイなんで……暫くして女がスクリンを上げてから気が付いてみると、その馬車の走り方のスゴイのにチョット驚きましたよ。ほかの馬車をグングン抜いて行くので、金ピカ服の交通巡査が何度も何度も向うから近付いて来て手を揚げて制止《とめ》にかかったようでしたが、私等《あっしら》の馬車に乗っている黒い頬鬚《ほおひげ》を生《はや》した絹帽《シルクハット》の馭者がチョット鞭《むち》を揚げて合図みたいな真似をすると、どの巡査もどの巡査も直ぐにクルリと向うを向いて行っちまったんです。
それが右へ曲っても左に曲っても、どこまで行ってもどこまで行ってもそうなんですから、あっし[#「あっし」に傍点]はだんだん不思議になって来ましたが、アトから聞いてみると無理もない話です。その馭者というのが旦那様……聖路易《セントルイス》切ってのギャングの大親分で、カント・デックてえ凄い奴だったそうです。聖路易《セントルイス》の町中の巡査はミンナこのデックの乾分《こぶん》みてえなものだったってえんですから豪勢なもんで……しかも一緒に乗っている支那娘のチイ嬢《ちゃん》と、もう一人のフイ嬢《ちゃん》とは揃いも揃ってこのカント・デックの妾《めかけ》だって事がそんな時のあっし[#「あっし」に傍点]にわかったら、そのまんま目を眩《まわ》しちゃったかも知れませんね。地球が丸いどころの騒ぎじゃ御座んせんからね。
それでなくとも何だか少々、薄ッ気味が悪くなりかけているところへ馬車が止って、一軒の立派な明るい店の前に着きました。チイ嬢《ちゃん》はそこであっし[#「あっし」に傍点]のキタネエ首根ッ子に今一つキッスをしますと、あっし[#「あっし」に傍点]の手を引きながらその店の中に這入って行きましたが、それは大きなレコード屋だったんですね。スバラシイ花輪や流行児《はやりっこ》の歌い手らしい男や女の写真が、四方の壁一パイに並んでい
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