》の壁だの、おうちの台所の天井だの、お向家《むかい》の御門の板だの、梅の木の枝だの、木の葉の影法師だのをヨ――ク見ていると、いろんな人の顔に見えて来てよ。きょうお母様に見せていただいた活動のわるい王様でも、綺麗なお姉さまの顔でも、キットどこかにあってよ。明日《あした》になったら、あたしキット……アラ……お母さまチョット……あそこに……」
 と云いさしてチエ子は又急に母親の手を引き止めた。
「……ホラ……あの電信柱の上に、小さな星がいくつも……ネ……ネ……いつもよくうちにいらっしゃる保険会社のオジサマの顔よ……お母様と仲よしの……ネ……」
 母親はギックリしたように立ち竦《すく》んだ。下唇をジイと噛んでチエ子の顔を見下した。わなわなとふるえる白い指先で、鬢《びん》のほつれを撫《な》で上げながら、おそろしそうにソロソロと、そこいらを見まわしていたが、何と思ったか突然《だしぬけ》に、邪慳《じゃけん》にチエ子の手を振り離して小走りに駈け出した。
「アレ……おかあさまア……待って……」
 とチエ子も駈け出したが、石ころに躓《つまず》いてバッタリと倒おれた。その間《ま》に母親は大急ぎで横町へ外《そ》れてしまった。
 チエ子はヒイヒイ泣きながら、起き上ってあとを追いかけた。泣いては立ち止まり、走り出しては泣きしながら、辻々の風に吹き散らされて行くかのように、いくつもいくつも御角を曲って、長いことかかってやっと、見おぼえのある横町の角まで来ると、お向家《むかい》の御門の暗い軒燈《けんとう》の陰から、真白な、怖い顔をさし出して、こちらを見ている母親の顔が見つかった。
 チエ子はそのまま立ち止まって、声高く泣き出した。

       三

 それから後《のち》、母親はあまりチエ子を可愛がらなくなった。
「……もうチエ子さんは、じき学校に行くのですから、独りでねんねし習わなくてはいけません」
 と云って、茶の間に別の床を取って寝かして自分は一人で座敷の方に寝るようにした。活動なぞにも、それから一度も連れて行かないで、自分ばかり朝早くからお化粧をして出かけると、夜遅くまで帰って来ない日が続くようになった。帰りがけにチエ子の大好きな、絵本を買って来るようなこともなくなった。
 けれどもチエ子は、別に淋しがるような様子はなかった。それかといって女中と遊ぶでもなく、今までの通り古い絵本を繰り返
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