私と連れ立った候補生は、途中で苦痛のために二度ばかり失神して、あまり頑強でない私の身体《からだ》をグラグラと引摺り倒しかけたが、私が与えた薄荷火酒《メントールブランデー》でヤット気力を回復して、喘《あえ》ぎ喘ぎよろめき出した。お互いにワルデルゼイ大佐の命令の意味がわからないまま、月の出ている方向へ、息も絶え絶えの二人三脚を続けた。
 しかし二人とも大佐には追附き得なかった。大佐は途中で二度ばかり私を振返って、
「ソンナ奴は放っとき給え。早く来給え」
 と噛んで吐き出すような冷めたい語気で云ったが、私の頑固な態度を見て諦めたのであろう。そのままグングンと私たちから遠ざかって行った。そうした理屈のわからない残忍極まる大佐の態度を見ると、私はイヨイヨ確《しっか》りと候補生を抱え上げてやった。
 候補生はホントウに目が見えないらしかった。その眼の前の零下二十度近い空気を凝視している二重瞼《ふたえまぶた》と、青い、澄んだ瞳には何等の表情も動かなかった。ただその細長い、細い、女のような眉毛だけが、苦痛のためであろう。絶えずビクビク……ビクビク……と顫動《せんどう》しているだけであった。
 私は遥かの地平線に散り乱れる海光色の光弾と、中空に辷《すべ》り登っている石灰色の月の光りに、交る交る照らされて行く候補生の拉甸《らてん》型の上品な横顔を見上げて行く中《うち》に又も胸が一パイになって来た。こんなに美しい、無邪気な顔をした青年が、気絶する程に痛い足を十|基米《キロメートル》も引摺り引摺り、又もあの鉄と火の八《や》ツ裂《ざき》地獄の中へ追返されるのかと思うと、自分自身が截《き》り苛責《さい》なまれるような思いを肋骨《あばら》の空隙《くうげき》に感じた。
 候補生も何か感じているらしく、その大きく見開いた無感覚な両眼から、涙をパラリパラリと落しているのが、月の光りを透かして見えた。
 私は外套《がいとう》のポケットから使い残りの脱脂綿を掴み出してその涙を拭いてやった。……すぐに凍傷になる虞《おそれ》があるから……すると候補生は、わななく指で私の右手を探って、その脱脂綿を奪い取ると、なおも新しく溢れ出して来る涙を自分で拭い拭い立停まった。ガクガクと戦《おのの》く左足の苦痛をジイッと唇に噛みしめ噛みしめ、だんだんと遠ざかって行くワルデルゼイ軍医大佐の佩剣の音に耳を傾けているようであったが、やがて極めて小さい、虫のような声で私に問うた。
「軍医大佐殿とはモウ余程離れておりますか」
「……ソウ……百|米突《メートル》ばかり離れております。何か用事ですか」
 候補生は答えないまま空虚な瞳を星空へ向けた。血の気の無い白い唇をポカンと開け、暫く何か考えているらしかったが、やがて上衣の内ポケットから小さな封筒大の油紙|包《づつみ》を取出して、手探りで私の手に渡して、シッカリと握らせた。
 しかし私は受取らなかった。彼の手と油紙包みを一所に握りながら問うた。
「これを……私に呉れるのですか」
「……イイエ……」
 と青年は頭を強く振った。なおも湧出す新しい涙を、汚れた脱脂綿で押えた。
「お願いするのです。この包を私の故郷の妻に渡して下さい」
「貴方《あなた》の……奥さんに……」
「……ハイ。妻の所書《ところがき》も、貴方の旅費も、この中に入っております」
「中味の品物は何ですか」
「僕たちの財産を入れた金庫の鍵です」
「……金庫の鍵……」
「そうです。その仔細《わけ》をお話ししますから……ドウゾ……ドウゾ……聞いて下さい」
 と云う中《うち》に青年は、両手を脱脂綿ごと顔に押し当てて、乞食のように連続的にペコペコ……ペコペコと頭を下げた。私はすこし持て余し気味になって来た。
「とにかく……話して御覧なさい」
「……あ……有難う御座います……」
「サアサア……泣かないで……」
「すみません。済みません。こうなんです」
「……ハハア……」
「……僕の先祖はザクセン王国の旧家です。僕の家にはザクセン王以上の富を今でも保有しております。父は僕と同姓同名でミュンヘン大学の教授をつとめておりました。僕はその一人息子でポーエル・ハインリッヒという者です。今の母親は継母で、父の後妻なんですが、僕と十歳ぐらいしか年齢《とし》が違いません。その父が昨年の夏、突然に卒中で亡くなりましてからは、継母は家付きの弁護士をミュンヘンの自宅に出入りさせておりますが、この弁護士がドウモ面白くない奴らしいのです。いいですか……」
「成る程。よくわかります」
「僕が継母に説伏《ときふ》せられて三度の御飯よりも好きな音楽をやめて、軍隊に入る約束をさせられたのもドウヤラその弁護士の策謀《さしがね》らしいのです。つまりその弁護士は僕と、僕の新婚の妻との間に子供が出来ない中《うち》に、継母《はは》と共謀して、財産の横領を企てているのじゃないかと疑い得る理由があるのです。その弁護士は非常に交際の広い、一種の世間師という評判です。極《ご》く極く打算的な僕の継母《はは》もこの弁護士にばかりは惜し気もなくお金を吸い取られているという評判ですからね。僕をヴェルダンの要塞戦に配属させたのも、その弁護士の秘密運動が効を奏した結果じゃないかと疑われる位なんです」
 私は太い、長い、ふるえたタメ息を腹の底から吐き出した。最初は不承不承に聞いていたつもりであったが、いつの間にか一も二もなく候補生に同情させられていた。
「成る程……現在《いま》の独逸には在りそうな話ですね。悪謀《わるだくみ》に邪魔になる人間は、戦場に送るのが一番ですからね」
「……でしょう……ですから僕は、僕の財産の一切を妻のイッポリタに譲るという遺言書と一緒に、色々な証書や、家に伝わった宝石や何かの全部を詰め込んだ金庫の鍵を、戦線に持って来てしまったんです。ちょうど妻が伊太利《イタリー》の両親の処へ帰っている留守中に、僕の出征命令が突然に来たのですからね。いつもだと僕の妻が喜ぶ事を絶対に好まなかった継母《はは》が、不思議なほど熱心に妻にすすめて故郷へ帰らせて、非常な上機嫌で駅まで送ったりした態度がドウモ可怪《おか》しいと思っていたところだったのです」
「成る程。よくわかります」
「それだけじゃないのです。私の出征した後で帰って来た妻は、私の母親と弁護士に勧められて、他家《よそ》へ縁附くように持ちかけられているし、妻の両親も、それに賛成している……という手紙が妻から来たのです」
「それあ怪《け》しからんですねえ」
「……怪しからんです……しかし妻は、僕から離別した意味の手紙を受取らない限り、一歩もこの家を出て行かないと頑張っているそうですが……私たちは固く固く信じ合っているものですからね……」
 候補生は一秒の時間も惜しいくらい迅速に、要領よく事情を説明した。恐らく彼が鉄と、火と、毒|瓦斯《ガス》の中で一心を凝《こ》らして考え抜いて来た説明の順序を、今一度、ここで繰返したものらしかったが、そのせいか、こうした甘ったるいお惚《のろ》けが、氷のように切迫した人生の一断面を作って、私の全神経に迫って来たのであった。
「どうぞどうぞ後生ですから、この鍵を極《ごく》秘密の裡《うち》に妻に手渡しして下さい。僕の妻からハインリッヒ伯爵家の主婦の地位と、巨額の財産を奪い取るべく暗躍している者が随分多いのですから……」
 私は思わず襟《えり》を正した。それは立佇《たちど》まっている中《うち》にヒシヒシと沁み迫まって来る寒気のせいではなかった。
 見も知らぬ人間にこうした重大な物品を委托するポーエル・ハインリッヒ候補生の如何にもお坊ちゃんらしい純な、無鉄砲さに呆れ返りながらも、無言のままシッカリと油紙包みを受取った。
「……ありがとう御座います。ドウゾドウゾお願します……僕は……この悩みのために二度、戦線から脱走しかけました。そうして二度とも戦線に引戻されましたが、その三度目の逃亡の時に……今朝《けさ》です……ヴェルダンのX型|堡塁《ほうるい》前の第一線の後方二十|米突《メートル》の処の、夜明け前の暗黒《くらやみ》の中で、この腓《こむら》を上官から撃たれたのです……この包を妻に渡さない間は、僕は安心して死ねなかったのです」
「……………」
「……しかし……しかし貴方《あなた》はこの上もなく御親切な……神様のようなお方です。僕の言葉を無条件で真実と信じて下さる御方であるという事が、僕にチャントわかっています。……どうぞどうぞお願いします。クラデル先生。どうぞ僕を安心して、喜んで祖国のために死なして下さい。眼は見えませぬが敵の方向は音でもわかります。一発でもいいから本気で射撃さして下さい。独逸《ドイツ》軍人の本分を尽して死なして下さい」
 そう云う中《うち》にポーエル候補生は手探りで探り寄って来て、私の両肩にシッカリと両手をかけた。私の軍帽の庇《ひさし》を見下して、マジマジと探るように凝視していたが、イクラ凝視しても、何度眼をパチパチさしても私の顔を見る事が出来ないのが自烈度《じれった》いらしかった。
「……見えませぬ。……見えませぬ。神様のような貴方のお顔が見えませぬ……ああ……残念です……」
 私は思わず赤面させられた。私は自分の顔の怪奇《みにく》さを知っている。それはアンマリ立派な神様ではない……コンナ顔は見られない方がいい……と思った。
「ナアニ、今に見えるようになりますよ。失望なさらないように……」
 候補生は真黒く凍った両手で、私の鬚《ひげ》だらけの両頬をソッと抱え上げた。両眼をシッカリと閉じて頭低《うなだ》れた。その瞼《まぶた》から滴《したた》り落ちる新しい涙の一粒一粒が、光弾の銀色の光りを宿して、黒い土に消え込んだ。少年は神様に祈るような口調で云った。
「僕はモウジキ死にます。遅かれ早かれヴェルダンの土になります。……その前にタッタ一眼《ひとめ》先生のお顔を見て死にとう御座います。先生のお顔を記憶して地獄へ墜ちて行きとう御座います。ほかに御礼のし方がありませんから……モウ……太陽……月も……星も……妻の顔も見ないでいいです。そんなものは印象し過ぎる程、印象しておりますから。タッタ一眼……御親切な先生のお顔を……ああ……残念です……」
 私はモウすこしで混乱するところであった。
 死のマグネシューム光が照し出す荒涼たる黒土原……殺人器械の交響楽が刻み出す氷光の静寂の中に、あらゆる希望を奪い尽くされた少年が、タッタ一つ恩人の顔だけを見て死にたいと憧憬《あくが》れ願っている……その超自然的な感情が裏書きする戦争の暴風的破壊が……秒速数百|米突《メートル》の鉄と火の颶風《ぐふう》、旋風、※[#「飆」の「風」が左、第4水準2−92−41]風《ひょうふう》、颱風《たいふう》……その魘《おび》え切った霊魂のドン底に纔《わず》かに生き残っている人間らしい感情までも、脅やかし、吹き飛ばし、掠奪しようとする。その怖ろしい戦争の無限の破壊力の中から、何でも構わない、美しい、楽しい、霊的なものの一片でも掴み止めようとしている少年の憐れな努力……溺れかけている魂が、海底へ持って行こうとしている小さな花束……それがまあ「醜い私の顔」である事にやっと気が付いた私はモウ、ドウしていいのか、わからなくなってしまった。
 しかし地平線の向うでダンダンと発狂に近付いて来るヴェルダン要塞の震動に、凝然と耳を傾けていた候補生は、間もなく頭を強く左右に振った。ヨロヨロと私から退き離れた。
「ああ。何もならぬ事を申しました。さあ参りましょう。軍医大佐殿が待っておられますから……疑われると不可《いけ》ませんから……」
 私はここでシッカリと候補生を抱き締めて、何とか慰めてやりたかった。昂奮の余りの超自然的な感情とはいえ、この零下何度の殺気に鎖《とざ》された時間と空間の中で、コンナに美しい、純な少年から、これ程までに信頼され、感謝された崇高な一瞬間を、私の一生涯の中《うち》でも唯一、最高の思い出として、モットモット深く、強く印象したかった。
 しかし候補生は何かしら気が急《せ》くらしく、早くも私の
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