いる戦慄……血と、肉と、骨と、魂とを同時に粉砕し、嘲弄するところの鉄と、火と、コンクリートの BAKA−BAYASHI……地上最大の恐怖を描きあらわすところの最高度のノンセンスのオルケストラ……。
そのオルケストラの中から後送されて来る演奏済みの楽譜……死傷者の夥しさ。まだ日の暮れない中《うち》に半分、もしくは零になりかけている霊魂の呻吟《しんぎん》が、私達の居る白樺の林の中から溢れ出して、私を無限の強迫観念の中に引包んでしまった。
中央の大キャムプと、その周囲を取巻く小キャムプは無論超満員で、溢れ出したものは遅く上って来た半|欠《か》けの月と零下二十度近い、霜の氷り付いた黒土原の上に、眼も遥かに投出されたままになっている。私も最初の中《うち》は数名の部下を指揮して、それぞれの手当に熱中していたが、終《しま》いには熱中のあまり助手と離れ離れになって、各自《めいめい》に何百人かの患者を受持って独断専行で片付けなければならない状態に陥った。否……ことによると私が手当てをした人数は何千人に上るかも知れない。あとからあとから無限の感じの中へ忘却して行ったのだから……。
戦後、我独逸軍の衛生隊の完備していたことは方々で耳にして来たものであるが、そんな話を聞く度毎《たびごと》に、私は身体が縮まる思いがした。全くこの時は非道《ひど》かった。手を消毒する薬液は愚か、血を洗う水さえ取りに行く隙《ひま》が無かったので、私の両手の指は真黒く乾固《ひかた》まった血の手袋のために、折曲りが利かなくなった。一つには非常な寒さのせいであったろう。兵士の横腹から出る生温《なまあたたか》い血が手の甲にドクドクと流れかかると、その傷口から臓腑の中へ、グッと両手を突込みたい衝動に馳られて仕様がない位であった。
初めて見る負傷兵もモノスゴかった。
片手や片足の無い者はチットモ珍らしくなかった。臓腑を横腹にブラ下げたまま発狂してゲラゲラ笑っている砲兵。右の顳※[#「需+頁」、第3水準1−94−6]《こめかみ》から左の顳※[#「需+頁」、第3水準1−94−6]へ射抜かれて視神経を打切られたらしい、両眼をカッと見開いたまま生きていて「カアチャンカアチャン」と赤ん坊みたいな声で連呼している鬚だらけの歩兵曹長。下顎を削り飛ばされたまま眼をギョロギョロさして涙を流している輜重兵《しちょうへい》なぞ、われわれ外科医の智識から見ると、奇蹟としか思えない妖怪的な負傷兵の大群が、洪水のように戦線から逆流して来て、私の周囲に散らばり拡がって、めいめいそれぞれの苦痛を、隣同志、無関係にわめき立てる。又は歌を唄い、祈りを捧げ、故郷の親兄弟妻子と夢うつつに語り合う。ゴロゴロと咽喉《のど》を鳴らして息を引取る……伯林《ベルリン》の酒場や、巴里《パリ》の珈琲《コーヒー》店や、倫敦《ロンドン》の劇場と同じ地続きの平面上に在るとは思えない恐怖の世界……死人の世界よりもモット物すごい現実の悪夢世界……そんなものが在り得るならばあの時の光景がそうであったろう。
夜が深くなって来るに連れて……負傷兵が増加して来るに連れて……一層、仕事が困難になって来た。傷口を診察するタヨリになるのは蛍色の月の光りと、木の枝の三叉《みつまた》に結び付けて地に立てた懐中電燈の光りだけで、それすら電池が弱りかけているらしく光線がダンダンと赤茶気て来る。材料なんぞも殆んど欠乏してしまったので、私は独断で手近い天幕を切り裂いて繃帯《ほうたい》にして、自分の身のまわりだけの負傷者を片付けて行った。戦争が烈しいために、万事の配給が困難に陥っているらしかった。
私がソンナ風に仕事に忙殺されている中《うち》に、白樺の林の奥の方から強力な携帯電燈の光りがギラリギラリと現われて、患者の間を匐いまわりながらダンダンと私の方へ近附いて来た。私は電池の切れかけている私の電燈に引較《ひきくら》べて、その蓄電装置らしい冴え返った光芒を羨ましく思った。誰かこっちへ加勢に来るのではないかと期待しいしいチョイチョイその方向を見ていると、その光りの持主は思いがけない司令官のワルデルゼイ軍医大佐である事がわかった。
軍医大佐は足の踏む処も無く並び重なっている負傷兵の傷口を一々点検しているらしい恰好である。その傍には工兵らしい下士卒が入れ代り立代り近附いて来て、大佐が指さした負傷兵を手取り足取り、引立てながらどこかへ連れて行く様子である。
私は軍医大佐の熱心ぶりに感心してしまった。
昼間見た時の同大佐はヒンデンブルグ将軍を小型にしたような、イヤに傲岸《ごうがん》、冷血な人間に見えた。今頃はズット後方の掩蔽《えんぺい》部かキャムプの中で、どこかの配給車が持って来た葉巻でも吹かして納まり返っている事と思っていたが、まさかにこれ程の熱情を持って職務に精励していようとは思わなかった。
そうしたワルデルゼイ大佐の精励ぶりを見ると同時に私は、私の良心が、私の肺腔一パイに涙ぐましく張り切って来るのを感じた。そうしてイヨイヨ一生懸命になって、追い立てられるように、次から次へと負傷者の手当を急いでいたものであったが、間もなく私の間近に接近して来たワルデルゼイ軍医大佐は、私がタッタ今、腓《こむら》を手当てしてやったばかりの将校候補生の繃帯を今一度解いて、念入りに検査し始めた。
それを見ると私は多少の不満を感じたものであった。
……それ以上の手当は現在の状態では不可能です……
という答弁を、腹の中で用意しながら、掌《てのひら》の血糊をゴシゴシと揉み落しているうちに、果せる哉《かな》、軍医大佐の電燈がパッと私の方へ向けられた。
「……や。クラデル君ですか。ちょっとこっちへ来て下さい」
そう云う軍医大佐の語気には明らかに多少の毒気が含まれていた。しかし私は勇敢に軍医大佐の側に突立って敬礼した。
ワルデルゼイ軍医大佐は砲弾の穴の半分埋まっている斜面に寝かされている、まだウラ若い候補生の身体《からだ》を電燈で指し示した。
「この小僧は眼が見えないと訴えているようですが真実ですか」
その候補生は鼻の下と腮《あご》に、黄金色《きんいろ》の鬚が薄く、モジャモジャと生えかけている、女のような美少年であった。まだ兵卒の服を着ているところを見ると、戦線に出てから何か失策を仕出来《しでか》したために進級が遅れたものらしい。顔から胸が惨酷《むご》たらしい鼻血と泥にまみれて、両手と、ズボンの破れから露出した膝小僧の皮が痛々しく擦り破れていたが、それでも店頭の蝋人形ソックリの青い大きな瞳を一パイに見開いて、鋼鉄色の大空を凝視していた。一心に私等の言葉を聞いているらしい赤ん坊のような表情であった。
その横顔を見ている中《うち》に私は少なからず心が動いた。私は生れ付きコンナ醜い恰好に出来ているために女性に愛せられる見込みもなく、男性にはイツモ軽蔑され勝ちで通って来たために、いつの間にか一種の片輪根性みたような性格に陥って来たものであろう。こうした美しい、若い男を見ると、いつも、理屈なしに親しくしてみたい……親切に世話をして遣りたいような盲目的な衝動に駈られて仕様がないのであった。
「ハイ。この候補生は前進の途中、後方から味方の弾丸に腓《こむら》を射抜かれたのです。それで匐いながら後退して来る途中、眼の前の十数メートルの処で敵の曳火弾《えいかだん》が炸裂したのだそうです。その時には奇蹟的に負傷はしなかったらしいですが、烈しい閃光に顔面を打たれた瞬間に視覚を失ってしまったらしいのです。明るいのと暗いのは判別出来ますが、そのほかの色はただ灰色の物体がモヤモヤと眼の前を動いているように思うだけで、銃の照準なぞは無論、出来ないと申しておりましたが……睫毛《まつげ》なぞも焼け縮れておりますようで……」
「ウム。それで貴官はドウ診断しましたかな」
「ハイ。多分戦場で陥り易い神経系統の一部の急性痲痺だろうと思いまして、出来るなら後退さして頂きたい考えでおります。時日が経過すれば自然と回復すると思いますから……視力の方が二頭腓脹筋《にとうひちょうきん》の回復よりも遅れるかも知れませぬが……」
「ウム。成る程成る程」
と軍医大佐は頻《しき》りに首肯《うなず》いていたが、その顔面筋肉には何ともいえない焦燥《いらだ》たしい憤懣の色が動揺するのを私は見逃さなかった。
大佐はそれから何か考え考え腰を曲《かが》めて、携帯電燈の射光を候補生の眼に向けた。私と同様に血塗《ちまみ》れになった、拇指《おやゆび》と食指《ひとさしゆび》で、真白に貧血している候補生の眼瞼《がんけん》を引っぱり開けた。繰返し繰返し電燈を点滅したり、候補生の上衣のボタンを引っくり返して、そこに縫い付けて在る姓名を読んだりしていたが、その中《うち》に突然、その候補生の窶《やつ》れた、柔らかい横頬を平手で力一パイ……ピシャリッ……と喰らわせたのには驚いた。そうして今二つ三つ烈しい殴打を受けて、声も立て得ずに両手を顔に当てたまま、手足を縮め込んでいる候補生の軍服の襟首を右手でムズと掴みながら、
「立てッ……エエ。立てと云うに……立たんかッ……」
と大喝するのであった。
私は昨日の昼間のワルデルゼイ司令官の言葉を思い出した。それは、
……死んだ奴は魂だけでも戦線へ逐《お》い返せ!
という宣言であったが、それ程の切羽《せっぱ》つまった現在の戦況であるにしても、これは又、何という残酷な事をするのだろうと慄《ふる》え上っていると、又も更に驚いた事には、その候補生が自分の膝を、泥と血だらけの両手に掴んで、美しい顔を歪《ゆが》めるだけ歪めて、絶大の苦痛を忍びながらヨタヨタと立上った事であった。
その悲惨そのものとも形容すべき候補生の不動の姿勢を、軍医大佐は怒気満面という態度で見下しながら宣告した。
「……ヨシ……俺に跟《つ》いて歩いて来い。骨が砕けていないから歩いて来られる筈だ。クラデル君……君も一緒に来てみたまえ。研究になるから……」
「……ハッ小官《わたくし》は今すこし負傷兵を片付けましてから……」
「まあいい。ほかの連中がどうにか片付けるじゃろう。……来てみたまえ。吾々軍医《われわれ》以外の独逸国民が誰も知らない戦争の裡面を見せて上げる。独逸軍の強い理由がわかる重大な秘密だ。君のような純情な軍医には一度、見せておく必要がある。……これは命令だ……」
「……ハッ……」
と答えて私は不動の姿勢を取った。
軍医大佐はそうした私の眼の前に、苦酸《にがず》っぱいような、何ともいえない神秘的なような冷笑の幻影を残しながらパチンと携帯電燈の光りを消した。佩剣《はいけん》の※[#「木+霸」、第3水準1−86−28]《つか》をガチャリと背後に廻して、悠々と白樺の林の外へ歩き出した。
その背後から候補生が、絶大の苦痛に価する一歩一歩を引摺《ひきず》り始めた。夜目にも白々とした苦しそうな呼吸を、大地にハアハアと吐き落しながら……。たまらなくなった私が、何がなしにその背後から追附いて、その右腕を捉えた。自分の肩に引っかけて力を添えてやったが、私の背丈が低すぎるので、あまり力にならないらしかった。
「……ありがとう……御座います。クラデル様……」
候補生が大地に沁み入るような暗い、低い、痛々しい声で云った。白い水蒸気の息をホ――ッと月の光りの下に吐き棄てたがモウ泣いているらしかった。
二
私たちの行程は非常に困難であった。
涯《はて》しもなく漫々たる黒土原と、数限りない砲弾の穴が作る氷と泥の陥穽《おとしあな》の連続。その上に縦横ムジンに投出されている白樺の鹿砦《ろくさい》。砲車の轅《ながえ》。根こそぎの叢《くさむら》の大塊。煉瓦塀の逆立《さかだ》ち。軍馬の屍体。そんな地獄じみた障害物が、鼠に噛じられたような棘々《とげとげ》しい下弦の月の光りと、照明弾と、砲火の閃光のために赤から青へ、青から紫へ、紫から黄色へ、やがて純白へと、寒い、冷めたい氷点下二十度前後の五色の反射を急速度に繰返しながら半|哩《マイル》ばかり続きに続いた
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