肩から離れて、よろぼいよろぼい歩き出していた。しかも驚くべき事には、その少年の一歩一歩には今までと見違える程の底強い力が籠っていた。それは私の気のせいばかりではなかった。真実に心の底からスッカリ安心して、勇気づけられている歩きぶりであった。少年らしい凜々《りり》しい決心が全身に輝き溢れていて、その頬にも、肩にも苦痛の痕跡さえ残っていなかった。その見えない二つの瞳には、戦場に向って行く男の児《こ》特有の勇しい希望さえ燃え輝いていた。
 私は神様に命ぜられたような崇高な感じに打たれつつ蹌踉《そうろう》として一候補生に追い附いた。無言で肩を貸してやって、又も近付いて来る砲弾の穴を迂廻させてやった。

       三

 やがて二|基米《キロメートル》も来たと思う頃、半月の真下に見えていた村落の廃墟らしい処に辿り付いた。
 その僅かに二三尺から、四五尺の高さに残っているコンクリートや煉瓦塀の断続の間に白と、黒と、灰色の斑紋《まだら》になった袋の山みたような物が、射的場の堤防ぐらいの高さに盛り上っていた。私はそれを工兵隊が残して行った大行李の荷物か、それとも糧秣の山積かと思っていたが、だんだん接近するに連れて、その方向から強烈な、たまらない石油臭が流れて来たので、怪訝《おか》しいと思って、なおも接近しながらよくよく見ると、その袋の山みたようなものは皆、手足の生えた人間の死骸であった。白い斑《まだら》と見えたのは顔や、手足や、服の破れ目から露出した死人の皮膚で、それが何千あるか、何万あるか判然《わか》らない。私たちが今まで居た白樺の林から運び出されたものも在ったろうし、途中で死亡して直接にここに投棄《なげす》てられたものも在ったろう。石油の臭気は、そんな死体の山を一挙に焼き尽すつもりでブッかけて在ったものと考えられる。
 青褪《あおざ》めた月の光りと、屍体の山と、たまらない石油の異臭……屍臭……。
 もうスッカリ麻痺していた私の神経は、そんな物凄い光景を見ても、何とも感じなかったようであった。候補生を肩にかけたままグングンとその死骸の山の間に進み入った。ガチャリガチャリと鳴る軍医大佐の佩剣《はいけん》の音をアテにして……。
 そこは戦前まで村の中央に在った学校の運動場らしかった。周囲に折れたり引裂かれたりしたポプラやユーカリの幹が白々と並んでいるのを見てもわかる。その並木の一本一本を中心にして三方に、四五|米《メートル》高さの堡塁《ほうるい》のように死骸が積重ねて在って、西の方の地平線、ヴェルダンに向った方向だけがU字型に展開されているのであった。
 その広場の中央に近く、やはり数十の負傷兵が、縦横十文字に投出されたように寝転がっていたが、しかしこの負傷兵たちが、何のために白樺の林から隔離されて、コンナ陰惨な死骸の堡塁の中間に収容されているのか私はサッパリ見当が付かなかった。しかもこの連中は比較的軽傷の者が多いらしく、村の入口らしい、石橋の処で待っていた大佐と、私たちとが一緒になって中央に進み入ると、寝たまま半身を起して敬礼する者が居た。それは特別に軍医の注意を惹いて、早く治療を受けたいといったような、負傷兵特有の痛々しい策略でもないらしい敬礼ぶりであった。
 しかしワルデルゼイ軍医大佐は、そっちをジロリと見たきり、敬礼を返さなかった。直ぐに私の方を振返って、
「その小僧をそこへ突放し給え」
 と云ったがその鬚だらけの顔付の恐しかったこと……月光を背にして立っていたせいでもあったろう。地獄から出張して来た青鬼か何ぞのように物凄く見えた。

 私が候補生を地面にソッと寝かしてやると、軍医大佐は苦々しい顔をしたまま私を身近く招き寄せた。携帯電燈をカチリと照して、そこいらに寝散らばっている負傷兵の傷口を、私と一緒に一々点検しながら、無学な負傷兵にはわからない露西亜《ロシア》語と、羅典《ラテン》語と、術語をゴッチャにした独逸《ドイツ》語で質問しはじめた。
「この傷はドウ思うね……クラデル君……」
「……ハ……右手掌《うしゅしょう》、貫通銃創であります」
「普通の貫通銃創と違ったところはないかね」
「銃創の周囲に火傷《かしょう》があります」
「……というと……どういう事になるかね」
 私はヤット軍医大佐の質問の意味がわかった。
 しかし私は返事が出来なかった。……自分の銃で、自分の掌《てのひら》を射撃したもの……と返事するのは余りに残酷なような気がしたので……。
 大佐は鬚の間から白い歯を露《あら》わしてニヤリと笑った。直ぐに次の負傷兵に取りかかった。
「そんならこの下士官の傷はドウ思うね」
「……ハ……やはり上膊部の貫通銃創であります。火傷は見当らないようですが……」
「それでも何か違うところはないかね」
「……弾丸の入口と出口との比較が、ほかの負傷兵のと違います。仏軍の弾丸ではないようで……近距離から発射された銃弾の貫通創と思います」
「……ウム……ナカナカ君はよく見える。そこでつまりドウいう事になるかね」
 私は又も返事に困った。前の時と同じ理由で……。
「この脚部の創《きず》はドウ思うね。君が今連れて来た候補生だが……」
「弾丸の入口が後方に在ります」
「……というとドンナ意味になるかね」
「……………………」
「それじゃ君……コッチに来たまえ。この腕の傷がわかるかね」
「わかります。弾丸の口径が違います。私は剔出《てきしゅつ》してやったのです」
「何の弾丸だったね。それは……」
「……………………」
「味方の将校のピストルの弾丸《たま》じゃなかったかね」
「……………………」
「……ハハハ……もう大抵わかったね。ここに集めて在る負傷兵の種類が……」
「……ハイ……ワ……わかりました」
 私は何故となくガタガタ震え出した。
 しかしワルデルゼイ軍医大佐は、依然として「研究」を中止しなかった。なおも次から次へと私を引っぱりまわして、殆んど百名に近いかと思われる負傷者の患部を診察しては質問し、質問しては次に移って行ったが、いずれもその最後は、私が答える事の出来ない質問に帰着する種類の負傷ばかりであった。
 悽愴極まる屍体の山と石油臭の中に隔離されている約一小隊の生霊に、モウ間もなく与えられるであろう軍律の制裁……或る不可知の運命を考えさせられながら、その不名誉この上もない……寧《むし》ろ悲惨事以上の悲惨事とも見るべき超常識的な負傷の傷口を一々、念入りに診察して行く中《うち》に、私の背筋の全面が、気温を超越した冷汗にジットリと蔽われた。烈しい恐怖の予想から来る荒い呼吸のために、私の鬚の一本一本が真白い霜に蔽われた。膝頭と歯の根が同時にガタガタと音を立てそうになって来た。そうして百に近い負傷兵の何となく魘《おび》えた、怨めしそうな、力ない視線に私の全神経が射竦《いすく》められて、次第次第に気が遠くなりかけて来た時にヤット全部の診察、研究が終ると、大佐は私を些《すこ》し離れた小高い土盛の上に連れて行って、軍刀をグット背後に廻した。両耳の蔽いを取って自分の顔を、手袋をはめた両手で強く摩擦し初めた。
「……そこでクラデル君。これらの全部の負傷兵の種類を通じての特徴として、君は何を感じますかね」
「……ハッ……。皆、味方の銃弾か、銃剣によって傷《きずつ》いている事であります。砲弾、毒|瓦斯《ガス》、鉛筆(仏軍飛行機が高空から撒布して行く短かい金属性の投矢の一種)等の負傷は一つも無い事です」
「……よろしい……」
 吾が意を得たりという風に云い放った軍医大佐はピタリ顔面の摩擦を中止した。満足げに首肯《うなず》き首肯き小高い土盛りの中央に月の光を背にして立った。今一度、勢よく軍刀の※[#「木+霸」、第3水準1−86−28]《つか》を背後に押しやって咳一咳《がいいちがい》した。振返ってみるとヴェルダンの光焔が、グングンと大空に這い昇って、星の光りを奪いつつ湧き閃めいている。
 その時に姿勢を正したワルデルゼイ軍医大佐は、三方の屍体の山を見まわしながら真白い息を吐いて長吼《ちょうく》した。
「……皆ア……立て――エッ……」
 アッチ、コッチに寝転がっていた負傷兵が皆、弾かれたようにヒョコリヒョコリと立上った。中には二三人、地面に凍り付いたように長くなっている者も在ったが、それは早くも軍医大佐の命令の意味を覚って、失神した連中であったらしい。
 何の反響も与えない三方の屍体の山が、云い知れぬモノスゴイ気分を場内一面に横溢させている。
「皆、俺の前に一列に並べ。早く並べ……何をしとるか。倒れとる奴は引摺り起せ」
 声に応じて二三人の負傷兵が寄り集まって、長くなっている仲間を抱き上げようとしたが結局、無駄であった。正体のなくなっている酔漢と同様にグタグタとなって何度も何度も戦友の腕から辷り落ちるのであった。真実に気絶しているらしいので、凍死しては不可《いけ》ないと思って、私が近附いて行こうとするのを大佐が押止めた。
「……放っとき給え……ほっときたまえ……凍死する奴は勝手に凍死させておけ。そんな者はいいから早く並べ。……ヨオシ……皆、気を附け……整頓……番号……」
「二、三、四……八十……八十一ッ……」
「八十一か……」
「ハイ。八十一名であります」
 最後尾に居るポーエル候補生が真正面を向いたまま答えた。
「よろしい。寝ている奴が三人と……合計八十四名だな」
「そうであります」
 今度は候補生の一つ前に居る中年の軍曹が答えた。ピストルで腕を撃たれている男だ。肩から白い繃帯と副木で綿に包まれた腕を釣っているのがこの場合、恐ろしく贅沢なものに見える。
「……よろしい……」
 軍医大佐が又も咳一咳した。
「……馬鹿……誰が休めと云うたか……銃殺するぞ。馬鹿者|奴《め》がッ。……気を付け……」
 死骸の山を背景にして、蒼白な月光に正面した負傷兵の一列の顔はドレもコレも生きた色を失っていた。死人よりも力ない……幽霊よりもタヨリない表情であった。その生きた死相の行列は、一生涯、私の網膜にコビリ付いて離れないであろう。
「……汝等は……何故に普通の負傷兵から区別されて、ここに整列させられているか、自分で知っているか」
 軍医大佐の言葉が終らぬ中《うち》に又も二三人、気が遠くなったらしい。ドタリドタリと棒倒しに引っくり返った。ヤット自分達の立場が彼等にわかったらしい。
 ツルツルと一筋、つめたい汗の玉が背筋を走ったと思うと、私も眼の前の光景が、二三十|基《キロ》も遠方の出来事のように思えて来た。
 倒れた仲間を振返って見る者は愚か、身動きする者すらいなかった。皆、蒼白い月の光の中に氷結したようにシインと並んで立っていた。……その時の彼等がドンナ気持で立っていたか、私には想像出来なかった。ただボンヤリと飾氷《かざりごおり》の中の花束の行列を聯想させられていただけであった。死んだまま立っている人間の行列……死刑を宣告されかけている自傷兵の一小隊……。
「わからなければモウ一つ質問する」
 軍医大佐は一歩前進して自分の背後を指した。
「眼を開いて汝等の正面を見よ。あの物凄い銃砲の音と、火薬の渦巻を見よ。あれが見えるか。あれは一体、何事であるか……わかるか……」
「……………」
 誰も返事をしなかった。返事の代りに又も二三人バタリバタリと引っくり返っただけであった。
「……よろしい……それから……廻れエ、右ッ……」
 皆、器械のように決然と廻転した。序《ついで》にブッ倒れた者もいたくらい元気よく……。
「よしッ。汝等の背後に山積して在る汝等の同胞の死骸を見よ……これはイッタイ何事であるか汝等の同胞は何のためにコンナ悲壮な運命を甘受しているのか……わかるか……」
 思い出したように頸低《うなだ》れた者が四五人。軍服の袖を顔に当ててススリ泣《なき》を初めた者が二三人……。
 光弾が……仏軍のマグネシューム光がタラタラと白い首筋の一列を照して直ぐに消えた。
「……よろしい。廻れエ、右ッ……整頓……。わからなければ今一つ尋ねる。ええか。……イッタイ吾々軍医なるものは何のために戦場
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