に忍ばせていたメントール酒の残りをグッと一息に飲干《のみほ》して、背筋を匐《は》い上る胴震いと共にホーッと熱い呼吸を吹いた。わななく膝を踏み締めて、軍医大佐と共に横の方へ退いた。
それは輜重隊の大行李に配属されている工兵隊の一部が、程近い処に伏せて在ったのであろうと思われる。かねてから打合わせて在ったと見えて一小隊、約百名ばかりの腮紐《あごひも》をかけた兵卒が負傷兵に正面して一列に並んだ。並ぶと同時に銃を構えてガチャガチャと装填しはじめた。
その列の後方から小隊長と見える一人の青年士官が、長靴と、長剣の鎖を得意気に鳴らして走り出て来た。軍医大佐の前に来て停止すると同時に物々しく反《そ》り返って、軍刀をギラリと引抜いて敬礼した。
折からヴェルダンの中空に辷り昇った強力な照明弾が、向い合った味方同志の兵士の行列を、あく迄も青々と、透きとおる程悽惨に照し出した。
その背後の死骸の山と一緒に……。
四
若い小隊長は白刃を捧げたまま切口上を並べた。
「フランケン・スタイン工兵聯隊、第十一中隊、第二小隊カアル・ケンメリヒ中尉……」
「イヤ。御苦労です」
軍医大佐は巨大な毛皮の手袋を穿《は》めた右手を挙げて礼を返した。その右手で、左から右へ水平に、残忍な……極度に冷静な一直線を指し描いた。
「この犬|奴《め》らを片付けて下さい」
「……ハッ……ケンメリヒ中尉は、この非国民の負傷兵等をカイゼルの聖名《みな》によって、今、直ぐに銃殺させます」
後方勤務でウズウズしていた若い、忠誠なケンメリヒ中尉は、この使命を勇躍して待っていたらしい。今一度、私等二人に剣を捧げると靴音高らかに、活溌に廻れ右をした。
トタンに照明弾が消えて四周が急に青暗くなってしまった。網膜が作る最深度の灰色の暗黒の中に、何もかもグーンと消え込んで行ってしまった。
「……軍医殿……ワルデルゼイ大佐殿……」
という悲痛な叫び声が、照明弾の消滅と同時に負傷兵の一列の中から聞えた。それは腸《はらわた》のドン底から絞り出る戦慄を含んだカスレ声であった。
……と思ううちに忘れもしない一番右翼に居た肩を負傷した下士官が、青暗い視界の中によろめき出て来て、私たちの足下にグタグタとよろめき倒おれた。起上ろうとして悶えながら、苦痛に歪んだ半面を斜めに、月の光りの下に持上げた。そのまま極めて早口に……殆んど死物狂いの意力をあらわしつつハッキリと云った。
「……ミ……皆を代表して申しますッ。コ……ここで銃殺されるよりも……イ……今一度、戦線へ返して下さいッ。イ……一発でも敵に向って発射さして、死なして下さいッ。戦死者の列に入れて下さいッ……アッ……」
いつの間にか駈け寄って来たケンメリヒ中尉が、恐ろしく憤激したらしく、半身を支え起している軍曹の軍服の背中を、革鞭《むち》のようにしなやかな抜身の平《ひら》で力一パイ……ビシン……ビシン……と叩きのめした。
「エエッ。卑怯者ッ。今更となって……恥を晒《さら》すかッ……コン畜生コン畜生コン畜生ッ……」
「アイタッ……アタッ……アタアタッ……サ……晒します晒しますッ。ワ……私は……故郷に居る、年老《としお》いた母親が可哀相なばっかりに……もう死ぬるかも知れないお母さんが……タッタ一眼会いたがっている老母が居《お》る……居りますばっかりに……自……自傷しました……」
「ええッ。未練者……何を云うかッ……」
「アタッ。アタッ。わかりました。……もうわかりましたッ。何もかも諦らめました。ヴェルダンの火の中へ行きます……喜んで……アイタッ……アタアタアタアタアタッ」
月光に濡れた工兵中尉の剣光がビィヨンビィヨンと空間に撓《しな》った。
「……ナ……何を吐《ぬ》かす。卑怯者……売国奴……」
「アツツツツツ。アタッ。アタッ、待って……待って下さい。皆も……皆も私と同じ気持です。同じ気持です。どうぞ……どうぞこの場はお許し……お許しを……アタッ……アタッ……アタアタアタッ……ヒイ――ッ……」
可哀そうに軍曹は熱狂したケンメリヒ中尉の軍刀の鞭の下に気絶してしまった。私は衝動的に走り寄つて、メントール酒の瓶を軍曹の唇に近附けたが、瓶は空《から》っぽ[#「瓶は空《から》っぽ」は底本では「瓶に空《から》ぽ」]になっている事に気附いたので憮然として立上った。
その時にワルデルゼイ軍医大佐は、なおも懸命に軍刀を揮いかけているケンメリヒ中尉を遮《さえぎ》り止めた。
「……待ち給え。待ち給え。ケンメリヒ君……皆がこの軍曹の云う通りの気持なら、ここで犬死にさせるのも考え物ですから……」
そう云った軍医大佐の片頬には、何かしら……冷笑らしいものが浮かんでいるように思ったが……しかしそれは極度に神経を緊張させていた私の錯覚か、又は仄青《ほのあお》い
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