光線の工合《ぐあい》であったかも知れない。そのままガチャリガチャリと洋刀を鳴らしながら軍医大佐は、向い合っている二列の中間に出て行った。
 不平そうに頬を膨《ふく》らしているケンメリヒ中尉と、ホッとした私とが、その背後から跟《つ》いて行った。
 十|米突《メートル》ばかりを隔てて向い合った二列の中央に来ると軍医大佐は、又も二つ三つ揚がった光弾の光りを背に受けながら、毅然として一同を見まわした。
 同じように不動の姿勢を執っている負傷兵たちの頬には皆、涙が流れていた。その涙が光弾のゆらめきを蒼白くテラテラと反射していた。
 しかしその中にタッタ一人、列の最後尾に立っている候補生の美しい横顔だけは濡れていなかった。……のみならず何かしらニコニコと不思議な微笑を浮かめて真正面を凝視しているのが、さながらに天国の栄光を仰いでいる使徒のように神々《こうごう》しく見えた。
 けれども大佐は候補生の微笑に気付かなかったらしい。今度はハッキリした軽い冷笑を片頬に浮かめながら今一度、一同を見廻わした。
「何だ。皆泣いているのか。馬鹿共が……何故早く拭わぬか。凍傷になるではないか……休めい……」
 負傷兵たちが一斉に頭を下げてススリ泣きを初めた。各自に帽子や服の袖《そで》で、頬を拭いまわし初めると、今まで緊張し切っていた場面の空気が急に和《な》ごやかになって来た。
 ケンメリヒ中尉が背後の工兵隊を顧《かえりみ》て号令を下した。まだイクラか不満な声で……。
「立てえ銃……休めえ」
「気を附け……」
 と大佐が負傷兵たちに号令した。右翼の兵卒が二名出て来て、気絶している軍曹を抱え起して行った。
「皆わかったか」
「……わかりました……」
 と全員が揃って答えた。生き返ったような昂奮した声であった。
 大佐も幾分調子に乗ったらしい。釣込まれるように両肱を張り、両脚を踏み拡げて、演説の身構えになった。
「……よろしい……大いによろしい……現在の独逸は、数百カラットの宝石よりも、汝等に与える一発の弾丸の方が、はるかに勿体《もったい》ない位、大切な場合である。同様に汝等の生命が半分でも、四分の一残っていても構わない、ヴェルダンの要塞にブッ付けなければならないのが我儕《われわれ》、軍医の職務である……わかったか……」
「わかりました」
 大佐の演説の身振りがだんだん大袈裟《おおげさ》になって来た。
「……よろしい……もうすこし云って聞かせる……近い中《うち》に独逸の艦隊が、英仏の聯合艦隊をドーバーから一掃してテイムス河口に殺到する。そうしたら倫敦《ロンドン》は二十四時間の中《うち》に無人の廃墟となるであろう。一方にヴェルダンが陥落してカイゼルの宮廷列車が巴里《パリ》に到着する。逃場を失った聯合軍はピレネ山脈とアルプス山脈の内側で、悉《ことごと》く殲滅《せんめつ》されるであろう。独逸の三色旗が世界の文化を支配する暁が来るであろう。その時に汝等は一人残らず戦死しておれよ。それを好まない者はたった今銃殺してやる。……味方の弾丸を減らして死ぬるも、敵の弾丸を減らして死ぬるも死は一つだ。しかし光栄は天地の違いだぞ……わかったか……」
「わかりました」
 大佐は演説の身ぶりをピタリ止めて、厳正な直立不動の姿勢に返った。右手を揚げて列の後尾を指した。
「……よし行け……その左翼の小さい軍曹……汝の負傷は一番軽い上膊《じょうはく》貫通であろう。汝……引率して戦場へ帰れ。負傷が軽いので引返して来ましたと、所属部隊長に云うのだぞ……ええか……」
「……ハッ……陸軍歩兵軍曹……メッケルは負傷兵……八十……四名を引率してヴェルダンの戦線に帰ります。軽傷でありましたから帰って来ましたと各部隊長に報告させます」
「……よろしい……今夜の事は永久に黙っておいてやる……わかったか……」
「……わかりました。感謝いたします」
「……ヤッ……ケンメリヒ中尉。御苦労でした。兵を引取らして休まして下さい。御覧の通り片付きましたから……ハハハ……」
 そんな風に、急に気軽く砕けて来た軍医大佐のあたたかい笑い声を聞くと同時に、私の全身がゾオッと粟立《あわだ》って来た。頭の毛が一時にザワザワザワと逆立《さかだ》ち初めた。……今までの出来事の全体が、一種の極端な芝居ではなかったか……といったようなアラレもない感じが、頭の片隅にフッと閃めいたからであった。
 それは今の今まで、この鋼鉄製の脳髄を持った軍医大佐から、あまりにも真剣過ぎる超自然的な試練に直面させられて、ヘトヘトにまでタタキ附けられている私の脳髄が感じた一種の弱い、しかし強く鋭い一種の幻覚錯覚であったかも知れない……。
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 ……ワルデルゼイ軍医大佐は元来、非常な悪党なのではあるまいか。西部戦線の裡面に巨大な巣を張りまわして、こ
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