を宿して、黒い土に消え込んだ。少年は神様に祈るような口調で云った。
「僕はモウジキ死にます。遅かれ早かれヴェルダンの土になります。……その前にタッタ一眼《ひとめ》先生のお顔を見て死にとう御座います。先生のお顔を記憶して地獄へ墜ちて行きとう御座います。ほかに御礼のし方がありませんから……モウ……太陽……月も……星も……妻の顔も見ないでいいです。そんなものは印象し過ぎる程、印象しておりますから。タッタ一眼……御親切な先生のお顔を……ああ……残念です……」
 私はモウすこしで混乱するところであった。
 死のマグネシューム光が照し出す荒涼たる黒土原……殺人器械の交響楽が刻み出す氷光の静寂の中に、あらゆる希望を奪い尽くされた少年が、タッタ一つ恩人の顔だけを見て死にたいと憧憬《あくが》れ願っている……その超自然的な感情が裏書きする戦争の暴風的破壊が……秒速数百|米突《メートル》の鉄と火の颶風《ぐふう》、旋風、※[#「飆」の「風」が左、第4水準2−92−41]風《ひょうふう》、颱風《たいふう》……その魘《おび》え切った霊魂のドン底に纔《わず》かに生き残っている人間らしい感情までも、脅やかし、吹き飛ばし、掠奪しようとする。その怖ろしい戦争の無限の破壊力の中から、何でも構わない、美しい、楽しい、霊的なものの一片でも掴み止めようとしている少年の憐れな努力……溺れかけている魂が、海底へ持って行こうとしている小さな花束……それがまあ「醜い私の顔」である事にやっと気が付いた私はモウ、ドウしていいのか、わからなくなってしまった。
 しかし地平線の向うでダンダンと発狂に近付いて来るヴェルダン要塞の震動に、凝然と耳を傾けていた候補生は、間もなく頭を強く左右に振った。ヨロヨロと私から退き離れた。
「ああ。何もならぬ事を申しました。さあ参りましょう。軍医大佐殿が待っておられますから……疑われると不可《いけ》ませんから……」
 私はここでシッカリと候補生を抱き締めて、何とか慰めてやりたかった。昂奮の余りの超自然的な感情とはいえ、この零下何度の殺気に鎖《とざ》された時間と空間の中で、コンナに美しい、純な少年から、これ程までに信頼され、感謝された崇高な一瞬間を、私の一生涯の中《うち》でも唯一、最高の思い出として、モットモット深く、強く印象したかった。
 しかし候補生は何かしら気が急《せ》くらしく、早くも私の
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