爵家の主婦の地位と、巨額の財産を奪い取るべく暗躍している者が随分多いのですから……」
私は思わず襟《えり》を正した。それは立佇《たちど》まっている中《うち》にヒシヒシと沁み迫まって来る寒気のせいではなかった。
見も知らぬ人間にこうした重大な物品を委托するポーエル・ハインリッヒ候補生の如何にもお坊ちゃんらしい純な、無鉄砲さに呆れ返りながらも、無言のままシッカリと油紙包みを受取った。
「……ありがとう御座います。ドウゾドウゾお願します……僕は……この悩みのために二度、戦線から脱走しかけました。そうして二度とも戦線に引戻されましたが、その三度目の逃亡の時に……今朝《けさ》です……ヴェルダンのX型|堡塁《ほうるい》前の第一線の後方二十|米突《メートル》の処の、夜明け前の暗黒《くらやみ》の中で、この腓《こむら》を上官から撃たれたのです……この包を妻に渡さない間は、僕は安心して死ねなかったのです」
「……………」
「……しかし……しかし貴方《あなた》はこの上もなく御親切な……神様のようなお方です。僕の言葉を無条件で真実と信じて下さる御方であるという事が、僕にチャントわかっています。……どうぞどうぞお願いします。クラデル先生。どうぞ僕を安心して、喜んで祖国のために死なして下さい。眼は見えませぬが敵の方向は音でもわかります。一発でもいいから本気で射撃さして下さい。独逸《ドイツ》軍人の本分を尽して死なして下さい」
そう云う中《うち》にポーエル候補生は手探りで探り寄って来て、私の両肩にシッカリと両手をかけた。私の軍帽の庇《ひさし》を見下して、マジマジと探るように凝視していたが、イクラ凝視しても、何度眼をパチパチさしても私の顔を見る事が出来ないのが自烈度《じれった》いらしかった。
「……見えませぬ。……見えませぬ。神様のような貴方のお顔が見えませぬ……ああ……残念です……」
私は思わず赤面させられた。私は自分の顔の怪奇《みにく》さを知っている。それはアンマリ立派な神様ではない……コンナ顔は見られない方がいい……と思った。
「ナアニ、今に見えるようになりますよ。失望なさらないように……」
候補生は真黒く凍った両手で、私の鬚《ひげ》だらけの両頬をソッと抱え上げた。両眼をシッカリと閉じて頭低《うなだ》れた。その瞼《まぶた》から滴《したた》り落ちる新しい涙の一粒一粒が、光弾の銀色の光り
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