肯《うなず》かれたのであった。
 彼女はその時に私の機嫌を取るつもりであったらしい。釣糸の先に引っかかった一匹の虎斑《とらぶち》の猫を、ここに書くさえ気味のわるいアラユル残忍な方法でイジメつけながら、たまらないほど腹を抱えて笑い興じるのであった。声も立て得ないまま瞳《め》を大きく見開いているその猫のタマラナイ姿を一生懸命の思いで、生汗《なまあせ》をかきかき正視しているうちに、私は、私の神経がみるみる恐ろしい方向に冱《さ》えかえって行くのに気がついていた。
 ……この女は有害無益な存在である。
 ……この女は地上に在りとあらゆる法律上の罪人のドレよりも消極的な、つまらない存在である。……と同時に、そのドレよりも詛《のろ》わしい、忌《い》まわしい、しつっこい存在でなければならぬ。
 ……この女は外国の残虐伝《ざんぎゃくでん》に出てくる女性たちの性格を、モッと小さくして、モッと近代的に尖鋭化《せんえいか》した本能の持主である……しかもこの女は、こうした趣味のためにワザワザ女優生活を飛びだして、人間世界から遠ざかって、こんなところに潜み隠れているので、私の眼に触れた動物以外に、まだドレ位の動物の死体を、裏の古井戸に投込んでいるかわからない……。
 ……この女はトテも私には我慢出来ない一つの深刻な悪夢である。……と同時に社会的にも、一つの尖鋭を極めた悪夢的存在でなければならぬ……。
 ……と……そんなような考えを凝視《ぎょうし》しいしい、台所の暗いところと向き合って、眼を一パイに見開いている私の背後から、虎の門のカーブを回る終電車の軋《きし》りが、遠く遠く、長く長く響いて来た。
 私はゾーッとして思わず額の生汗《なまあせ》を撫であげた。見ると彼女はイツの間にか猫の死骸を……それは生きたままであったかも知れない……井戸の中に投込んでしまったらしく、寝床の中の電気こたつ[#「こたつ」に傍点]に暖まりながら、気持ちよさそうに眼を閉じているのであった。
 私が彼女を殺さねばならぬ運命をマザマザと感じたのは実にその瞬間であった。……と同時に、その運命がみるみる不可抗的に大きな魅力となって、ヒシヒシと私を取り囲んで、息も吐《つ》かれぬ位グングンと私を誘惑し始めたのも、実にその寝顔を見下した次の瞬間からであった。
 ……この悪夢をこの世から抹殺し得るものは、この世に一人しか居ない。ここに突っ立っている私タッタ一人しか居ない。……この女を殺すのは私の使命である。
 ……否《いな》。否《いな》。この女は私と初対面の時から、こうなるべく運命づけられていたのだ。……その証拠にこの女はこの通り、絶対に安全な犯罪を私に遂《と》げさせるべく、自ら進んでここに来ているではないか……そうしてこの通りジッと眼を閉じて、私の手にかかるべく絶好の機会を作りつつ、待っているではないか。
 ……私は彼女の死体をここに寝かして、電燈を消して、いつもの時間通りに下宿に帰ればいいのだ。何も知らずに眠ってしまえばいいのだ。そうして明日《あす》の晩から又、以前《もと》の通りの散歩を繰返せばいいのだ。
 ……運命……そうだ……運命に違い無い……これが彼女の……。
 こんな風に考えまわしてくるうちに私は耳の中がシイ――ンとなるほど冷静になって来た。そうしてその冷静な脳髄で、一切の成行きを電光のように考えつくすと、何の躊躇《ちゅうちょ》もなく彼女の枕許にひざまずいて、四五日前、冗談にやってみた通りに、手袋のままの両手を、彼女のぬくぬくした咽喉《のど》首へかけながら、少しばかり押えつけてみた。むろんまだ冗談のつもりで……。
 彼女はその時に、長いまつげをウッスリと動かした。それから大きな眼を一しきりパチパチさして、自分の首をつかんでいる二つの黒い手袋と、中折帽子を冠ったままの私の顔を見比べた。それから私の手の下で、小さな咽喉仏《のどぼとけ》を二三度グルグルと回《ま》わして、唾液《つばき》をのみ込むと、頬を真赤にしてニコニコ笑いながら、いかにも楽しそうに眼をつむった。
「……殺しても……いいのよ」

       二

 私が何故《なにゆえ》に、彼女を殺したか。
 その彼女を殺した手段と、その手段を行った機会とが、如何《いか》に完全無欠な、見事なものであったか。
 そうして、そういう私はソモソモどこの何者か。
 そんな事は三週間ばかり前の東京の各新聞を見てもらえば残らずわかる。多分特号活字で、大々的に掲載してあるであろう「女優殺し」の記事の中に在る「私の告白」を読んでもらえば沢山である。そうしてその記事によって……かくいう私が、某新聞社の社会部記者で、警察方面の事情に精通している青年であった。同時に極端な唯物主義的なニヒリスト式の性格で、良心なぞというものは旧式の道徳観から生まれた、遺伝的感受性の
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