から持って帰った、今日の朝刊を拡げていると、階下の帳場で話している男と女の声が、ゆくりなくも障子越しに聞えて来た。私はその声を聞くと新聞から眼を離した。……ハテ……どこかで聞いたような……と思い思い新聞を見るふりをして聞くともなく聞いていると、それは顔|馴染《なじ》みの警視庁のT刑事と、下宿の女将《おかみ》の話声だった。
「フ――ン……何かその男に変った事は無いかね……近頃……」
T刑事は有名な胴間声《どうまごえ》であった。
「イイエ。別に……それあキチョウメンな方ですよ」
女将も評判のキンキン声であったが、きょうは何となく魘《お》びえている様子……。
私は新聞紙を夜具の上に伏せて、天井の木目を見ながら一心に耳を澄ました。大丈夫こっちの事ではない……と確信しながら……。
「フ――ン。身ぶり素振りや何かのチョットした事でもいいんだが……隠さずに云ってもらわんと、あとで困るんだが」
「……ええ……そう仰有《おっしゃ》ればありますよ。チョットした事ですけども……」
「どんな事だえ」
「…………」
女将の声が急に聞えなくなった。T刑事の耳に口を寄せて囁《ささや》いているらしい気はいであったが、ジッと耳を澄ましている私には、そうした芝居じみた情景がアリアリと見透かされて、何となく滑稽な気持ちにさえなった。……と思ううちに又も、T刑事の太い声が筒抜けに聞え初めた。
「……ウ――ム……。いつも鏡の前を通るたんびにチョット立ち止まるんだな。ウンウン。そうしてネクタイを直して、色男らしい気取った身振りを一つして、シャッポを冠り直して降りて行く。……それがこの頃その鏡を見向きもしない。色っぽい男だから、そんな癖《くせ》は女中がみんな気を付けて知っている……この一週間ばかり……フ――ン……ちょうど事件の翌日あたりからの事だな……フ――ム……モウ外《ほか》には無いかね……気の付いた事は……」
私はガバと跳ね起きた。社に出るにはまだ早かったが、そんな事を問題にしてはいられなかった。しかし決して慌てはしなかった。万一の用心のために、あらゆる場合を予想していたのだから……手早く着物を脱ぎ棄てて、テニスの運動服に着かえたが、その時に恥かしい話ではあるが胸が少々ドキドキした。まさか……まさかと思っていたのが案外早く手がまわったので……同時に些《すく》なからず腹も立った。どうしても一番手数のかかる、最後の手段を執《と》らなければならない事が予想されたので……。
……彼奴等《きゃつら》はいつもコンナ当てズッポー式の見込捜索をやるから困る。当り前に動かぬ証拠を押えて来るとなれば、百年かかってもここへ遣《や》って来る筈は無いのに……チエッ……。おまけに今、俺を引っかけようとしているトリックの浅薄《あさはか》さ加減はドウダ……そんな古手に引っかかる俺と思うか……と云いたいが今度だけは特別をもって引っかかってやる……その古手を利用してやる。その代り一分一厘間違い無しに証拠不充分になって見せるから、その時に吠面《ほえづら》かくな……。
そんな事を思い思い運動服の上から、スエーターをぬくぬくと着込んで、ガマ口を尻のポケットへ押し込んで、鳥打帽子と西洋手拭と、ラケットと運動靴を抱えると、石鹸《せっけん》を塗って辷《すべ》りをよくしておいた障子をソーッとあけて、裏町の屋根を見晴らした二階の廊下に出た。そこで念のために前後を見まわしたが誰も居ない。
……シメタナ。事によったら今の芝居は、芝居じゃなかったかも知れないぞ。逃げる余裕が充分に在るのかも知れないぞ……しかしまだ往来まで出てみないとわからない……。
と考えながら裏口の階段に続く廊下を、もしやと疑いながら曲り込むと、果してそこに立っていた……張り込んでいたに違い無いAという、やはり警視庁の老刑事にバッタリと行き合ってしまった。
私はその時にハッと眼を丸くして立ち竦《すく》んだ……ように思う。何故《なぜ》かというとこのAという老刑事が出て来る事は、殆《ほと》んど十中八九まで確定した犯人を逮捕する時にきまっていたのだから……そうしてあの晩見た、鏡の中の自分の姿を、その瞬間にチラリと思い浮かべたように思ったから……。
A刑事はゴマ塩の無性髭《ぶしょうひげ》を撫でながらニッコリと笑った。
「……ヤア……早くから……どこへ行くかね……」
私は二三度眼をパチパチさせた。すぐに笑い出しながら、何か巧《うま》い弁解をしようと思ったが、その一刹那に又も、鏡の中の自分の姿が、眼の前に立ち塞《ふさ》がったような気がしたので、思わずラケットを持った手で両方の眼をこすってしまった。
「……エ……エ……そのチョット……」
私は吾《わ》れながら芝居の拙《まず》いのに気が付いた。腋の下から冷汗がポタポタと滴《したた》り落ちるのがわか
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