の紐を解く事が出来た。それから、いつもの足どりで、うつむき勝ちに階段を昇ったが、それは吾《わ》れながら感心するくらい平気な……ねむたそうな跫音《あしおと》となって、深夜の階上と階下に響いた。
 ……もう大丈夫だ。何一つ手ぬかりは無い。あとは階段の上の取っ付きの自分の室《へや》に這入《はい》って、いつもの通りにバットを一本吹かしてから蒲団《ふとん》を引っかぶって睡ればいいのだ。……何もかも忘れて……。
 そんな事を考え考え幅広い階段を半分ほど昇って、そこから直角に右へ折れ曲る処に在る、一間四方ばかりの板張りの上まで来ると、そこで平生《いつも》の習慣が出たのであろう、何の気もなく顔を上げたが……私は思わずハッとした。モウすこしで声を立てるところであったかも知れなかった。
 ……「私」が「私」と向い合って突立っているのであった……板張りの正面の壁に嵌《は》め込まれた等身大の鏡の中に、階段の向うから上って来たに違い無い私が、頭の上の黄色い十|燭《しょく》の電燈に照らされながら立ち止まって私をジッと凝視しているのであった。……蒼白い……いかにも平気らしい……それでいて、どことなく犯人らしい冴え返った顔色をして……底の底まで緊張した、空虚な瞳《め》を据えて……。
「この鏡の事は全く予想していなかった」……と気付くと同時に私は、私の全神経が思いがけなくクラクラとなるのを感じた。私の完全な犯行をタッタ今まで保証して、支持して来てくれた一切のものが、私の背後で突然ガランガランガランガランと崩壊《ほうかい》して行く音を聞いたように思った。……同時に、逃げるように横の階段を飛び上って、廊下の取っ付きの自分の室《へや》に転がり込んで行く、自分自身を感じたように思った……が、間もなく、その次の瞬間には、もとの通りに固くなって、板張りの真中に棒立ちになったまま鏡と向い合っている自分自身を発見した。……自分自身に、自分自身を見透《みす》かされたような、狼狽《ろうばい》した気持ちのまま……。
 するとその時に、鏡の中の私が、その黒い、鋭い眼つきでもって、私にハッキリとこう命令した。
「お前はソンナに凝然《じっ》と突立っていてはいけないのだぞ。今夜に限ってこの鏡の前で、そんな風に特別な素振をするのは、非常な危険に身を晒《さら》す事になるのだぞ。一秒|躊躇《ちゅうちょ》すれば一秒だけ余計に「自分が犯人」である事を自白し続ける事になるのだぞ。
 ……しかし、そんなに神経を動揺さしたまま俺の前を立ち去るのは尚更《なおさら》ケンノンだ。お前は今すぐに、そのお前の全神経を、いつもの通りの冷静さに立ち帰らせなければならぬ。そうして平生《いつも》の通りの平気な足取りで、お前の右手の階段を昇って、自分の室《へや》に帰らなければならぬ。……いいか……まだ動いてはいけないぞ……お前の神経がまだ震えている……まだまだ……まだまだ……」
 こんな風に隙間もなく、次から次に命令する相手の鋭い眼付きを、一生懸命に正視しているうちに私は、私の神経がスーッと消え失せて行くように感じた。それにつれて私の全身が石像のように硬直したまま、左の方へグラグラと傾き倒れて行くのを見た……ように思いながら慌てて両脚を踏み締めて、唇を血の出るほど噛み締めながら、鏡の中の自分の顔を、なおも一心に睨み付けていると、そのうちにいつの間にか又スーッと吾に返る事が出来た。やっと右手を動かして、ポケットからハンカチを取り出して、顔一面に流るる生汗《なまあせ》を拭うことが出来た。そうすると又、それにつれて私の神経がグングンと弛《ゆる》んで来て、今度は平生よりもズット平気な……寧《むし》ろガッカリしてしまって胸が悪くなるような、ダレ切った気持になって来た。
 私は変に可笑《おか》しくなって来た。タッタ今まで妙に狼狽《ろうばい》していた自分の姿が、この上もなく滑稽《こっけい》なものに思えて来た。そうして「アハアハアハ」と大声で笑い出してみたいような……「笑ったっていいじゃないか」と怒鳴ってみたいようなフザケた気持になった。
 私は鏡の中の自分を軽蔑してやりたくなった……「何だ貴様は」とツバを吐きかけてやりたい衝動で一パイになって来た。そこでモウ一度ポケットからハンカチを出して顔を拭い拭い、そこいらをソット見まわしてから、鏡の中を振り返ると、鏡の中の私も亦《また》、瀬戸物のように、血の気《け》の無い顔をして、私の方をオズオズと見返した……が……やがて突然に、思い出したように、白い歯を露《あら》わして、ひややかにアザミ笑った。
 私は思わず眼を伏せた。……ゴックリと唾液《つば》を呑んだ。

 それから一週間ばかり後《のち》の或る朝であった。私はいつもの通り朝寝をして、モウ起きようか……どうしようかと思い思い、昨夜《ゆうべ》新聞社
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