った。老刑事も無論、私のいつに無いウロタエ方に気が付いたらしい。心持ち顔の筋肉を緊張させながらニッコリと笑った。
「チョットどこへ」
「テニスをしに行くんです……約束がありますから……」
老刑事は悠々と私を見上げ見下した。相かわらず顎《あご》を撫でまわしながら……。
「……フ――ン……どこのコートへ……」
私はここでヤット笑う事が出来た。ドンナ笑い顔だったか知らないけど……。
「日比谷のコートです……しかし何か御用ですか」
「ウン……チョット来てもらいたい事があったからね」
「僕にですか」
「ウン……大した用じゃないと思うが……」
「そうじゃないでしょう……何か僕に嫌疑をかけているのでしょう」
……平生の通りズバズバ遣《や》るに限る……と予《かね》てから覚悟していた決心が、この時にヤット付いた私は、思い切ってそう云ってやった。すると果して老刑事の微笑が見る間に苦笑に変って行った。かなり面喰ったらしい。
「そ……そんな事じゃないよ。君は新聞社の人間じゃないか」
私は腹の中で凱歌《がいか》をあげた。ここでこの刑事を憤《おこ》らして、遮二無二《しゃにむに》私を捕縛さしてしまえばいよいよ満点である。
「だってそうじゃないですか。何でも無い用事だったら電話をかけてくれた方が早いじゃないですか。まだ社に出る時間じゃないんですから直ぐに行けるじゃありませんか」
老刑事の顔から笑いが全く消えた。疑い深い眼付きをショボショボさして、モウ一度私を見上げ見下した。
その顔をこっちからも同時に見上げ見下しているうちに、私は完全に落ち付きを恢復《かいふく》した。頭が氷のようになって、あらゆる方向に冴え返って行った。
私は事態が容易でないのをモウ一度直覚した。老刑事が私を容易に犯人扱いにしようとしないのは、証拠が不十分なままに私を的確な犯人と睨んでいる証拠である……だから何とかして私を狼狽《ろうばい》さして、不用意な、取り返しの付かないボロを出さしておいてから、ピッタリ押え付けようとこころみている、この刑事一流の未練な駈け引きであることが、よくわかった。
……しかし警視庁ではドウして俺に目星を付けたんだろう……その模様によっては慌てない方がいいとも思うんだが……ハテ……。
そう考えながらホンノ一二秒ばかり躊躇しているうちに、老刑事は又もニコニコ笑い出しながら、私の耳に口をさし寄せた。そうして私が身を退《ひ》く間もなく、ボソボソと囁き出したが、その云う事を聞いてみると、私が想像していたのと一言一句違わないといってもいい内容であった。
「……ええかね君……温柔《おとな》しく従《つ》いて来たまえ。悪くは計《はか》らわんから。ええかね。君はあの女優が殺された空屋の近くに住んでいるだろう。そうして毎晩、社から帰りにあの家の前を通って行くじゃろう。それから手口が非常に鮮かで何の証拠も残っておらん。よほど頭と腕の冴えた人間で、手筋をよく知っている人間の仕事に違わんというので、極《ごく》秘密で研究した結果君に札が落ちたのだよ。別に証拠がある訳じゃない。だから出る処に出ればキット証拠不充分になる。これは絶対に保証出来る。ええかね。わかっとるじゃろう……。これは職務を離れた心持ちで、君を助けたいばっかりに云う言葉じゃから信用してくれんと困る。君は頭がええから解るじゃろう。わしも君には今まで何度も何度も仕事の上で助けてもらったことがあるからナ……ナ……」
この言葉のウラに含まれている恐るべく、憎むべき罠《わな》が見え透かない私じゃなかった。同時にその裏を掻《か》いて行こうとしている私の方針を考えて、思わず微笑したくなった私であった。
しかし私は、そんな気《け》ぶりを色に出すようなヘマはしなかった。そんな甘口に引っかかって一寸《ちょっと》でも躊躇したら、その躊躇がそのまま「有罪の証拠」になる事を逸早《いちはや》く頭に閃《ひら》めかした私は、老刑事の言葉が終るか終らないかに、憤然として云い放った。
「……駄目です。冗談は止して下さい……僕を引っぱったら君等の面目は立つかも知れないが、僕の面目はどうなるんです。面目ばかりじゃない、飯の喰い上げになるじゃないですか。厚顔無恥にも程がある。……失敬な……退《ど》き給え……」
と大声で怒り付けながら、老刑事を突き退《の》けて裏口の階段の方へ行こうとしたが、この時の私の腹の工合は、吾《わ》れながら真に迫った傑作であったと思う。老刑事のネチネチした老獪《ずる》い手段が、ホントウに自烈度《じれった》くて腹が立っていたのだから……。
しかし、こうした私の行動が、滅多に無事に通過しないであろう事は、私もよく知っていた。
老刑事は私が思っていたよりも強い力で、素早く私の肩を押えて引き戻した。そうしてラケットと靴を持った両手
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