冗談に殺す
夢野久作
−−
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)某社《ぼうしゃ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)流感|除《よ》けの黒いマスクをかけた
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)電気こたつ[#「こたつ」に傍点]に暖まりながら、
−−
一
私は「完全な犯罪」なぞいうものは空想の一種としか考えていなかった。丸之内の某社《ぼうしゃ》で警察方面の外交記者を勤めて、あくまで冷酷な、現実的な事件ばかりで研《と》ぎ澄《す》まされて来た私の頭には、そんなお伽話《とぎばなし》じみた問題を浮かべ得る余地すら無かった。そんな話題に熱中している友達を見ると軽蔑《けいべつ》したくなる位の私であった。
その私が「完全な犯罪」について真剣に考えさせられた。そうして自身にそれを実行すべく余儀なくされる運命に陥ったというのは、実に不思議な機会からであった。すべてが絶対に完全な犯行の機会を作ってグングンと私を魅惑して来たからであった。
今年の正月の末であった。私はいつもの通り十二時前後に社を出ると、寒風の中に立ち止まって左右を見まわした。私は毎晩社を出てから、丸之内や銀座方面をブラブラして、どこかで一杯引っかけてから、霞ヶ関の一番左の暗い坂をポツポツと登って、二時キッカリに三年町《さんねんちょう》の下宿に帰る習慣がついていたので……そうしないと眠られないからであったが……今夜はサテどっちへ曲ろうかと考えたのであった。
するとその私の前をスレスレに、一台の泥ダラケのフォードが近づいて来たと思うと、私の鼻の先へ汚れた手袋の三本指があらわれた。それは新しい鳥打帽を眉深《まぶか》く冠《かぶ》って、流感|除《よ》けの黒いマスクをかけた若い運転手の指であったが……私はすぐに手を振って見せた。
けれども自動車は動かなかった。今度は運転手がわざわざ窓の所へ顔を近づけて、私にだけ聞こえる細い声で、
「無賃《ただ》でもいいんですが」
といった。ドウヤラ笑っている眼付である。
私はチョット面喰った……が……直ぐに一つうなずいて箱の中に納まった。コイツは何か記事《タネ》になりそうだ……と思ったから……すると運転手も何か心得ているらしく、行先も聞かないままスピードをだして、一気に数寄屋橋を渡って銀座裏へ曲り込んだ。
次へ
全16ページ中1ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夢野 久作 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング