その時に私はいくらかドキドキさせられた。いよいよ怪しいと思ったので……ところが間もなく演舞場の横から、築地河岸《つきじがし》の人通りの少いところへくると、急にスピードを落した運転手が、帽子とマスクを取り除《の》けながらクルリと私の方を振り向いた。
「新聞に書いちゃイヤヨ。ホホホホ……」
 私は思わず眼を丸くした。
 それは二週間ばかり前から捜索願が出ている、某会社の活劇女優であった。彼女はズット前に、ある雑誌の猟奇《りょうき》座談会でタッタ一度同席した事のある断髪のモガで、その時に私がこころみた「殺人芸術」に関する漫談を、蒼白《あおじろ》く緊張しながら聞いていた顔が、今でも印象に残っているが、それが「女優生活に飽きた」という理由でスタジオを飛びだして、東京に逃げ込んでくると、所もあろうに三年町の私の下宿の直ぐ近くにある、小さなアバラ家《や》を借りて弁当生活をはじめた。そうして男のような本名の運転手免状を持っているのを幸いに、そこいらのモーロー・タクシーの運転手に化けこんで、モウ大丈夫という自信がついてから悠々《ゆうゆう》と私を跟《つ》けまわしはじめた……と彼女は笑い笑い物語るのであった。モウ一度、
「新聞に書いちゃ嫌《いや》よ」
 と念を押しながら……。

 彼女の話を聞いた私は何よりも先に、彼女が特に私を相手に選んだそのアタマの作用に少からぬ関心を持たされた。彼女がコンナにまで苦心をして、絶対の秘密のうちに私を追っかけまわした心理の奥には、何かしら恋愛以上の或《あ》るものが潜んでいるに違いないことが感じられる……その心理の正体が突き止めて見たくなった。同時に彼女の男装の巧《たくみ》さにも多少の興味を引かれたので、そのまま二人で絶対安全の秘密生活を始めるべく、自動車をグルグルまわしながら打ち合わせをしたのであった。
 その結果、私は毎晩、社の仕事が済むと、例の習慣を利用して、一時間だけ彼女のところに立寄る事になった。彼女も引続いて毎日、運転手姿で市中を流しまわる事にした。そうして私の前でだけ女になる事にきめた……一日にタッタ一時間だけ……。
 ……すこぶる簡単|明瞭《めいりょう》であった。しかも、それだけに私達の秘密生活は、百パーセントの安全率を保有している訳であったが……。
 ところがこの「百パーセントの安全率」がソックリそのまま「完全なる犯罪」の誘惑となって、私
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