寄せた。そうして私が身を退《ひ》く間もなく、ボソボソと囁き出したが、その云う事を聞いてみると、私が想像していたのと一言一句違わないといってもいい内容であった。
「……ええかね君……温柔《おとな》しく従《つ》いて来たまえ。悪くは計《はか》らわんから。ええかね。君はあの女優が殺された空屋の近くに住んでいるだろう。そうして毎晩、社から帰りにあの家の前を通って行くじゃろう。それから手口が非常に鮮かで何の証拠も残っておらん。よほど頭と腕の冴えた人間で、手筋をよく知っている人間の仕事に違わんというので、極《ごく》秘密で研究した結果君に札が落ちたのだよ。別に証拠がある訳じゃない。だから出る処に出ればキット証拠不充分になる。これは絶対に保証出来る。ええかね。わかっとるじゃろう……。これは職務を離れた心持ちで、君を助けたいばっかりに云う言葉じゃから信用してくれんと困る。君は頭がええから解るじゃろう。わしも君には今まで何度も何度も仕事の上で助けてもらったことがあるからナ……ナ……」
この言葉のウラに含まれている恐るべく、憎むべき罠《わな》が見え透かない私じゃなかった。同時にその裏を掻《か》いて行こうとしている私の方針を考えて、思わず微笑したくなった私であった。
しかし私は、そんな気《け》ぶりを色に出すようなヘマはしなかった。そんな甘口に引っかかって一寸《ちょっと》でも躊躇したら、その躊躇がそのまま「有罪の証拠」になる事を逸早《いちはや》く頭に閃《ひら》めかした私は、老刑事の言葉が終るか終らないかに、憤然として云い放った。
「……駄目です。冗談は止して下さい……僕を引っぱったら君等の面目は立つかも知れないが、僕の面目はどうなるんです。面目ばかりじゃない、飯の喰い上げになるじゃないですか。厚顔無恥にも程がある。……失敬な……退《ど》き給え……」
と大声で怒り付けながら、老刑事を突き退《の》けて裏口の階段の方へ行こうとしたが、この時の私の腹の工合は、吾《わ》れながら真に迫った傑作であったと思う。老刑事のネチネチした老獪《ずる》い手段が、ホントウに自烈度《じれった》くて腹が立っていたのだから……。
しかし、こうした私の行動が、滅多に無事に通過しないであろう事は、私もよく知っていた。
老刑事は私が思っていたよりも強い力で、素早く私の肩を押えて引き戻した。そうしてラケットと靴を持った両手
前へ
次へ
全16ページ中14ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夢野 久作 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング