ていた。
「ああ。喜んで御座る喜んで御座る。なあ老先生。もう絵になって終《しも》うて御座るけんどなあ老先生。あなた方御夫婦はこの村の生命《いのち》の親様じゃった。四十年この村に御奉公しとる私がよう知っとる。御恩は忘れまっせんぞえ。決して決して忘れませんぞえ……なあ。せめて今一年と半年ばかり生かいておきたかったなあ。今日というきょうこの席へ座らせたかったなあ。若先生御夫婦には、この伝六が附いとるというて安心させたかったなあ。今までの御恩報じに……」
 伝六郎の声が次第に上釣《うわず》って涙声になって来た。満場ただ伝六郎の一人舞台になってシインとしかけているところへ、縁側の障子の西日の前に一人の小女《こおんな》の影法師がチョコチョコと出て来て跪《ひざまず》いた。障子を細目に隙《す》かして眩《まぶ》しい西日を覗《のぞ》かせた。
 仲人の医師会長栗野博士が、その障子の隙間に胡麻塩《ごましお》頭を寄せて、少女の囁声《ささやき》を聞くと二三度軽くうなずいて立上った。その後から博士夫人が続いて立上ると、見送りのつもりであろう新郎新婦が続いて立上った。
「イヤ、宜《よろ》しい」
 と栗野博士が振返って手を振った。新婦の母親の頓野老夫人も、ちょっと中腰になって押止めにかかったが、新夫婦が強いて行こうとするのを見た頓野老人が、山羊鬚を扱《しご》いて老夫人を押止めた。小声で囁いた。
「婆さん。留めるな留めるな。もう良《え》えもう良え。立たしとけ立たしとけ。こげな式の時には見送りに立たぬものと昔からなっとるが、今の若い者は流儀が違うでのう。心配せんでも宜《え》えわい」
 床の間の前では話の腰を折られて唖然となった伝六郎が、新郎の残して行った大盃に気が付くと、
「勿体ない。お燗が冷《さ》める」
 と云って両手で抱え上げながら顔を近付けてグイグイと一息に飲み初めたので、見ていた下座の連中がゲラゲラ笑い出した。

 玄関に近い中廊下の暗がりまで来ると、栗野博士がニコニコ顔で新夫婦を振返った。
「イヤ。これは恐縮でした。……実は玄関に妙な患者が来たという話でな。あんた方は今日は、そげな者を相手にされん方が宜《え》えと思うたけに、私が立って来ましたのじゃが」
「ハッ。恐れ入ります。そんな事まで先生を煩《わずら》わしましては……」
 新郎の態度と言葉が、如何《いか》にも秀才らしくテキパキとしているのを
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