まあせ》を掻きながら今一度、静かに左右を振返ってみたが、その彼の怯《おび》えた視線は、タッタ今通って来た台所の角の、新しい黒い雨樋の処へピタリと吸い寄せられた。同時に彼の全神経が水晶のように凝固してしまった。
 そこには離座敷から、彼の行動を跟《つ》けて来たらしい花嫁の初枝の、冴え返った顔が覗いていた。昨夜のままの濃化粧と、口紅のクッキリとした、高島田の金元結《きんもとゆい》の艶《なま》めかしい、黒い大きな瞳を一パイに見開いた人形のような瓜実顔《うりざねがお》が、月の光りに浮彫《うきぼ》りされたまま、半分以上雨樋の蔭から覗き出して、彼の姿を一心に凝視しているのであった。
 彼はソレを月の光りに照し出された巴旦杏の花の幻覚かと思った。右手で左右の眼をグイグイと強くコスッて今一度よく見直した。
 それは、たしかに花嫁の初枝の顔に相違なかった。鬢《びん》のホツレ毛が二三本、横頬に乱れかかっているのが、傾いた月の光りでハッキリと見えた。その二つの黒い瞳が、マトモに此方を凝視したまま大きく、ユックリと二つばかり瞬《またた》いたのが見えた。同時に、その真白い頬から大粒の涙の球が、キラリキラリと月の光りを帯びて、土の上に滴《した》たり落ちるのが見えた。
 彼は、彼の足元の大地が、その涙の落ちて行く方向にグングンと傾いて行くように感じた。持っているビーカーを取落しそうになった。
 その時に彼に取縋《とりすが》っているオドロオドロしい姿が、泥だらけの左手をあげて、初枝の顔を指した。勝誇るように笑った。
「ケケケケ……エベエベエベ……キキキキ……」
 人形のような高島田の顔が、静かに雨樋の蔭から離れた。長々と地面に引擦《ひきず》った燃立つような緋縮緬《ひぢりめん》の長襦袢《ながじゅばん》の裾に、白い脛《すね》と、白い素足が交《かわ》る交る月の光りを反射しいしい、彼の眼の前に近付いて来た。
 彼はカプセルを自分の口に入れた。ビーカーの水を……その中にゆらめく月の光りを凝視しつつ……思い切ってガブガブと飲んだ。



底本:「夢野久作全集4」ちくま文庫、筑摩書房
   1992(平成4)年9月24日第1刷発行
入力:柴田卓治
校正:小林繁雄
2000年6月21日公開
2006年3月14日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.a
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