りの薬戸棚の硝子戸を開いて、きょう昼間、頓野老人が持出した黒柿の秘薬箱を今一度取出して、調合棚の上に置いた。その中から、やはり今日頓野老人が扱った塩酸モルヒネの小瓶を抓《つま》み出して、その中の白い粉末の小量を、月の光りに透かしながらカプセルに落し込んだが、多過ぎると思ったらしく又、その中の極微量を小瓶の中へ落し返してからカプセルの蓋をシッカリと蔽《おお》うた。それから何もかもモト通りに直して、薬戸棚の硝子戸をピッタリと閉じた。
その時に彼の背後の、開放《あけはな》しにして来た廊下の暗闇で微かな、深い溜息が聞こえたように思ったので、彼はハッとばかり固くなった。慌ててカプセルを右手に握り込んだまま、指先走りに廊下に出てみたが、しかしそこには何の人影も無く、真暗な中廊下の向うの、閉め忘れて来た渡殿《わたりどの》の入口の片側に、白桃の花が白々と月あかりに見えたので、今度は彼自身が思わず、深いタメ息をさせられた。
彼は彼自身を勇気付けるかのようにタッタ一人で微笑した。悠々と薬局に帰って、小型のビーカーを取上ると常水を六分目程満たした。塩酸モルヒネ入りのカプセルと一所に左手に持って、薬局用のスリッパを爪探《つまさぐ》った。薬局の横の扉の掛金を外《はず》して、勝手口の外側に出た。
軒下の暗がり伝いに足音を窃《ぬす》み窃み、台所の角に取付けた新しいコールタ塗《ぬり》の雨樋《あまどい》をめぐって、裏手の風呂場と、納屋の物置の廂合《ひさしあ》いの下に来た。
そこでは西へ傾いた月が、かなり深い暗がりを作って、直ぐ横手の白光りする土蔵の壁を、真四角に区切っていた。
彼は絶対に音を立てないように……まだ痲酔《まひ》しているであろう唖女の眼を醒まさないように、用心しいしい納屋の扉の掛金を外した。
……すると……納屋の中の暗がりで、突然にガサガサと藁《わら》の音がし初めた。たまらない乞食臭い異臭がムウと襲いかかって来た。……と思う間もなく獣のように髪を振乱した怪物……逞ましい、………………………唖女が飛出して来て、イキナリ彼に抱き付いた。心から嬉しそうに笑った。
「キイキイキイ……キキキキキ……」
その鵙《もず》さながらの声は月夜の建物と、その周囲をめぐる果樹園に響き渡って消え失せた。
彼は一切が破滅したように思った。眼も眩むほど胸がドキンドキンとした。全身にゾーッと生汗《な
前へ
次へ
全19ページ中17ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夢野 久作 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング