を無くした悲しみの余りに首を縊《くく》って死んだと聞いた時には彼は、正直のところホッとしたものであった。最早《もはや》、天地の間に彼の秘密を知っている者は一人も無い。この僅かな秘密の記憶一つを、彼自身がキレイに忘れて終《しま》いさえすれば、彼は今まで通りの完全無欠の童貞……絶対無垢の青年として評判の美人……初枝を娶《めと》る事が出来るのだ。
「おお神様。神様。どうぞこの秘密をお守り下さい。この私の罪をお忘れ下さい。もう決して……決して二度とコンナ事をしませんから……」
 と彼は人知れず物蔭で、手を合わせた事さえ在ったくらい、そうした思い出そのものを恐れ、戦《おのの》き、後悔していた。そうして彼は幸福にも一日一日と日を送って行くうちに、もう殆んど、そうした良心の傷手《いたで》を忘れかけていた。彼は彼自身の社会に対する一切の野心と慾望を擲《なげう》って、美人の妻と一所に田舎に埋もれるという、涙ぐましいほどに甘美な夢を、安心して、夜となく昼となく逐《お》い続けているところであった。
 その甘美な夢が、今、無残《むざん》にもタタキ破られてしまったのであった。
 時も時……折も折……忘れるともなく忘れて、消えるともなく消え失せていた彼の過去の微《かす》かな秘密が、突然に、何千、何万、何億倍された恐ろしい現実となって彼の眼の前に出現し、切迫して来たのであった。
 見るも浅ましい孕《はら》み女。物を得《え》言《い》わぬ聾唖者。それが口にこそ云い得ね、手真似にこそ出し得ね、正当な彼の妻である事を現実に立証し、要求すべく立現われて来たのであった。それは、ほかの人間たちには絶対にわからない、ただ彼にだけ理解される恐ろしい、不可抗的な復讐に相違なかった。
 ……もしも彼女がタッタ一言でも物を云い得たら……否々《いないな》。一人でも彼女の手真似を正当に理解し得る者が居たら……そうして、それだけの恐怖、不安、戦慄を、今日の日に限ってこの家の玄関に持込んで来たのが、彼女の意識的な計劃であったら……。
 ……それがさながらに悪魔の智慧《ちえ》で計劃された復讐のように残酷な、手酷《てきび》しい時機と場面を選んで来た事はトテモ偶然と思えない。白痴の一つ記憶《おぼえ》式の一念で、云わず語らずのうちに彼女がそうしたところを狙って、時機を待っていたかのようにも思える。又は全然そうでないかのようにも思える…
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