耳を傾けていた。山中《やまじゅう》の静けさがヒシヒシと身に泌《し》み透るのを感じていた。
 突然、鳥とも獣《けだもの》とも附かぬ奇妙な声がケタタマシク彼を驚ろかした。
「ケケケケケケケケケ……」
 彼はビックリして眼を見開いた。彼は山の中の空地の一端に佇《たたず》んでいたのであった。
 そこは巨大な楠や榎に囲まれた丘陵の上の空地であった。この村の昔の名主の屋敷|趾《あと》で、かなりに広い平地一面に低い小笹がザワザワと生え覆《かぶ》さっている。その向うの片隅に屋根が草だらけになって、白壁がボロボロになった土蔵が一戸前、朽ち残っていた。
 その倉庫の二階の櫺子《れんじ》窓から白い手が出て一心に彼をさし招いている。その手の陰に、凄い程白く塗った若い女の顔と、気味の悪い程赤い唇と、神々《こうごう》しいくらい純真に輝く瞳と、額に乱れかかった夥《おびただ》しい髪毛が見えた。それが窓から挿《さ》し込む烈しい光線に白い歯を美しく輝やかした。
「……キキキ……ヒヒヒ……ケケケ……」
 その幽霊のように凄い美くしさ……なまめかしさ。眼も眩《くら》むほどの魅惑……白昼の妖精……。
 彼は骨の髄までゾーッとしながら前後左右を見まわした。
 彼の頭の上には真夏の青空がシーンと澄み渡って蝉の声さえ途絶《とだ》え途絶えている。彼を見守っているものは、空地の四方を囲む樹々の幹ばかりである。
 彼は全身を石のように固くした。静かに笹原を分けて土蔵の方へ近付いた。
 窓の顔が今一度嬉しそうにキキと笑った。すぐに手を引込めて、窓際から離れて、下へ降りて行く気はいであった。
 土蔵の戸前には簡単な引っかけ輪鉄が引っかかって、タヨリない枯枝が一本挿し込んで在るキリであった。それを引抜くと同時に内側で、落桟を上げる音がコトリとした。彼は眼が眩んだ。呼吸を喘《はず》ませながら重い板戸をゴトリゴトリと開けた。
「キキキキキキキキキ……」

 そこまで考え続けて来ると彼は寝床の中で一層身体を引縮めた。背後にスヤスヤと睡っているらしい花嫁……初枝の寝息を鉄瓶の湯気の音と一所に聞きながらなおも考え続けた。

 ……それは彼の生れて初めての過失であると同時に、彼の良心の最後の致命傷であった。
 その後、その重大な過失の相手である唖女のお花が行衛《ゆくえ》不明となり、そのお花の言葉を理解し得るタッタ一人の父親、門八が、彼女
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