…。………………………………………………、透きとおるような声で、
「おやすみ遊ばせ」
 とハッキリ云うと、石のように頬を固《こわ》ばらせたまま冷然と眼を閉じている………………………………………………………、……………………………………………………………、出来るだけ静かに………………………、……………………………………。
 しかし澄夫は動かなかった。呼吸をしているのか、どうかすら判然《わか》らない位|凝然《じっ》と静まり返っていた。初枝も天鵞絨《びろうど》の夜具の襟《えり》をソット引上げて、水々しい高島田の髱《たぼ》を気にしいしい白い額と、青い眉を蔽うた。
 白湯《さゆ》の音がシンシンと部屋の中に満ち満ちた。
 新郎――澄夫は、その白湯の音に耳を澄ましながら、物置の中に寝ている唖女の事ばかりを一心に考え続けていた。

 それは去年の八月の末の事であった。
 暑中休暇の数十日を田舎の自宅で潰《つぶ》して、やっとの事で卒業論文を書上げた彼は、正午《ひる》下りの晴れ渡った空の下を、裏山の方へ散歩に出かけた。
 彼の両親はもう、三個月ばかり前に老病で相前後して死んでいた。後の医業《しごと》は彼の父の友人で、伜《せがれ》に跡目を譲って隠居している隣村の頓野老人が来て、引受けてくれていたので、彼はただ一生懸命に勉強して大学を卒業するばかりであった。しかも天性|柔良《じゅうりょう》で、頭のいい彼は、各教授から可愛がられていたし、自分自身にも首席で卒業し得る自信を十分に持っていた。卒業論文が出来上れば、もう心配な事は一つも無いといってよかった。
 彼は完全な両親の愛の中で育ったせいであろう。庭球以外には何一つ道楽らしい道楽を持っていなかった。もちろん女なんかには、こっちから恐れて近附き得ないような所謂《いわゆる》、聖人型だったので、二十四歳の大学卒業間際まで、完全な童貞の生活を送っていた。それは大学時代の一つの秘密の誇りでもあった。
 だから来年に近附いて来た結婚に対する彼の期待は、彼の極めて健康な、どちらかといえば脂肪|肥《ぶと》りの全身に満ち満ちていた。田圃《たんぼ》道でスレ違いさまにお辞儀《じぎ》をして行く村の娘の髪毛《かみのけ》の臭気を嗅《か》いでも、彼は烈しいインスピレーションみたようなものに打たれて眼がクラクラとする位であった。
 だから、そんなものに出会うのを恐れた彼は
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