座敷であった。
 縁側の障子際《しょうじぎわ》に坐っている仲人役の栗野博士夫妻は最前から頻《しき》りに気を揉《も》んで、新郎新婦に席を外《はず》させようとしていたが、田舎の風俗に慣れない新郎の澄夫が、モジモジしている癖にナカナカ立ちそうになかった。やっと立上りそうな腰構えになると又も、盃を頂戴《ちょうだい》に来る者がいるので又も尻を落付けなければならなかった。そうして、やっと盃が絶えた機会を見計《みはから》って本気に立上ろうとしたところへ、今一度前と違った奇怪な叫び声が聞こえたので、又もペタリと腰を卸《おろ》したのであった。
「アワアワアワ……エベエベ……エベ……」
「何じゃい。アレ唖《おし》ヤンの声じゃないかい」
「唖ヤンの非人が何か貰いに来とるんじゃろ」
「ウン。お玄関の方角じゃ」
「ああ、ビックリした。俺はまた生きた猿の皮を剥《は》ぎよるのかと思うた」
「……シッ……猿ナンチ事云うなよ」
 そんな会話を打消すように末席から一人の巨漢が立上って来た。
「なあ花婿どん。イヤサ若先生。花嫁御《はなよめご》はシッカリあんたに惚れて御座るばい」
 そう云ううちに新郎の前へ一升入の大盃を差突けたのはこの村の助役で、村一番の大酒飲の黒山伝六郎であった。見るからに血色のいい禿頭《はげあたま》の大入道で、澄夫の膳の向うに大胡座《おおあぐら》をかいた武者振は堂々たるものであったが、袴の腰板を尻の下に敷いているので、花嫁の初枝が気が附くと真赤になって下を向いた。
 澄夫は恭《うやうや》しく大盃を押戴《おしいただ》いたが、伝六郎が在合《ありあ》う熱燗《あつかん》を丸三本分|逆様《さかさま》にしたので、飲み悩んだらしく下に置いて口を拭いた。
 伝六郎は両肱を張って眼を据えた。座敷中に響き渡る野天声《のてんごえ》を出した。
「なあ若先生。イヤサ澄夫先生。惚れとるのは花嫁御ばかりじゃないばい。村中の娘が総体に惚れとる。俺でも惚れとる。なあ。この村で初めての学士様じゃもの。しかも優等の銀時計様ちうたら日本にたった一人じゃもの……なあ。学問ばっかりじゃない。テニスとかペニスとかいうものは学校でも一番のチャンポンとかチンポンとかいう位じゃげな」
 仲人の郡医師会長夫妻と、頓野老夫婦と、新郎新婦が、腹を抱えて笑い出した。下座の方の若い連中が又続いて大声でゲラゲラ笑い初めたので、伝六郎はその方に入道
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