ヤ》や鎖《チエン》でジワジワと釣り上げるだけでも、チョットやソットの仕事じゃない。おまけにあの大揺れの中を、二日がかりで荷物を積み換えて、ヤット少しばかりお尻を持ち上げさした船のスクリュウの穴の中へ、ソーッと押し込もうというのだから、無理な註文だという事は最初からわかり切っているだろう。船渠《ドック》の中で遣っても相当、骨の折れる仕事を、沖の只中で流されながら遣ろうというのだからね。……のみならず今も云う通り、七八千|噸《トン》の屋台を世界の涯まで押しまわろうという鋼鉄《はがね》の丸太ン棒だ。ピカピカ磨き上げた上に油でヌラヌラしている奴だから、手がかりなんか全然《まるで》無いんだ。ワイヤとチエンで、どんなに緊《しっか》り縛り付けといたって、一旦辷り出したとなれあ、人間の力で止める事が出来ない。一|分《ぶ》辷ったら一|寸《すん》……一寸辷ったら一尺といった調子で、アトは辷り放題の、惰力の附き放題だ。遠慮も会釈《えしゃく》もあったもんじゃない。ズラズラズラズラッと辷り出したが最後の助。鉄の板でも何でもボール紙みたいに突き破って、船の外へ頭を出すにきまっている。そのまま、ズルズルズッポリと外へ抜け出してしまったら、ソレッキリの千秋楽だ。取り返しが付かぬどころの騒ぎじゃない。飛び出しがけの置土産《おきみやげ》に巨大《おおき》な穴でもコジ明けられた日には、本家本元の船体が助からない。シャフトのアトからブクブクブクと来るんだ。……ハッハッどうだい。わかるかね。シャフトの素晴らしさが。ウン。わかるだろう。コンナ篦棒《べらぼう》な苦心した機関長はタントいないだろうと思うがね。
 ところが世の中は御方便なものでね。険呑《けんのん》な仕事なら、自慢じゃないが、慣れっこになっている吾輩だ。尤も吾輩が乗ったからシャフトが折れたのかも知れないがね、ハッハッ。前以て、そんな間違いがないように、二重三重に念を入れて、不眠不休で仕事をしたから、ヤット一週間目に蒸汽《スチーム》を入れるところまで漕《こ》ぎ付けたんだが、その間の騒動ったらなかったね。一万|磅《ポンド》なんか無論立消えさ。糞《くそ》でも喰らえという気で、押し切るには押し切ったが、実のところ寿命が縮まる思いをしたね。……乗客の方は無論の事さ。その時分に印度洋のマン中で、一週間も漂流するなんて事を、ウッカリ最初から云い出そうもんなら、気の早い奴は身投げぐらい、しかねないんだ。毛唐なんて存外、気の小さいもんだからね。すぐに思い詰める奴が出て来るんだ。その証拠に、明日《あした》明日で云い抜けながら仕事をして行くうちに、三日ばかり経ったら乗客が、一人も寝なくなってしまった。みんな神経衰弱にかかっちゃったらしいんだ。来る日も来る日もエムデンの目標になって浮いているんだから、考えて見れあ無理もないさ。こっちも無論エムデンが怖くないことはなかったが、怖いったって今更ドウにも仕様がない。タッタ一本しか無い予備シャフトを無駄にしたらそれこそホントウに運の尽きだからな。
 そんな訳で、最初から腹を定《き》めて仕事をしたお蔭で、ヤット船が動き出すには動き出したが、今度はモウ速力《スピード》を出さない。八千|磅《ポンド》の証文をタタキ返して、安全弁《セーフチイバルブ》の鉄片《てつきれ》を引っこ抜いてしまった。すると又、そのうちに、乗客の中でも一番航海通の海軍将校上りが……サッキ話した慌て者さ……そいつが手ヒドイ神経衰弱に引っかかってしまった。機関長を殺せとか何とか喚《わ》めきやがって、ピストルを振りまわすので、トテモ物騒で寄り付けない。……とか何とか事務長が文句を云いに来たから、僕は眼の球《たま》の飛び出るほど怒鳴り付けてやった。
「……訳はない。そいつを機関室《ここ》へ連れて来い。汽鑵《かま》へブチ込んでくれるから……いくらか正気付くだろう」
 と云ってやったら事務長の奴、驚いて逃げて行ったっけ。ハッハッハッハッ……。
 オーイ。這入れえ。オイオイ。這入れえ……。
 何だ。ボン州か。何の用だ。ナニイ。チットモ聞えない。こっちへ這入れ。そうしてその扉《ドア》を閉めろ……ちっとも聞えない。
 どうしたんだ。……ウンウン……検査が済んだのか。恐ろしく恐ろしく手間取ったじゃないか。ウンウン真鍮張《しんちゅうば》りのトランクの中に麻雀八|筥《はこ》か……牌《パイ》の中味は全部|刳抜《くりぬ》いて綿ぐるみの宝石か……古い手だな……。
 オットオット。待ち給え李《リー》君……今頃ピストル何か出したって間に合わないよ。君の背後《うしろ》の寝台の下に居る奴がスイッチを切ると、今君が腰をかけている鉄の床几《しょうぎ》に、千五百ボルトの電流が掛かるんだ。そのために君のお尻を濡らしておいたんだが、気が付かなかったかい。ハハハ……。
 先刻《さっき》から冗《くど》く説明しているじゃないか。あの垂直の鉄梯子を降りたら運の尽きだと……ハハハ。解ったかい。わかったらモウ一度腰を卸《おろ》し給え。大丈夫だよ。まだ電流《でんき》は来ていない。君を黒焦《くろこ》げにしちゃっちゃ、元も子もなくなるからね。ね。解ったろう。
 君はこの船を普通《ただ》の船と見て乗った訳じゃなかろう。最初から秘密があると睨んで虎穴に入ったんだろう。序《ついで》にこの船の秘密を看破《みやぶ》ってやれという気になってここまで降りて来たのは、いい度胸だったかも知れないが、そいつがドウモ感心しなかったね。
 ナニ。あの宝石は模造品だって? ハハハ。そうかも知れないが模造品で結構だよ。頂戴する分には差支えなかろう。ナニ、皆|呉《く》れるから生命《いのち》だけは助けてくれか。ハハハハ……それは時と場合に依っては助けてやらない事もないが、それじゃ王《ワン》君に済まない事になるんだ。王君からの電話に依ると君は目下|北平《ペーピン》でヨボヨボしている白系露人の頭領、ホルワット将軍の秘書役だったが、日本の田中内閣が潰れてから、同将軍を支持する国が無くなったので見切りを付けて、共産軍の方へ寝返りを打ったサイ・メイ・ロン君に相違ないというんだ。それから君はツイこの頃になってG《ゲー》・P《ペー》・U《ウー》の遊離細胞となって、上海《シャンハイ》に流れ込んで来ると間もなく、最近上海で国際スパイ兼、排日団体の首領として売り出している、青紅《チンオン》嬢の一|乾児《こぶん》となったもので、Rの四号というのはヤッパリ君の事らしいという王君の報告だがね。
 ……ところでそのRの四号君が、ドレ位の腕前を持っているかということは、今云う通り経歴《すじみち》がヤヤコシイからサッパリ判然《わか》っていないんだが、とにかく一当り当って焦点《フオカス》を合わせてくれ、トランクの中味もまだ突止めていないが、近いうちに日支関係が緊張するのを見越して、上海の巨商|黄鶴号《おうかくごう》から、長崎の支店へ送るべく青紅嬢に委託された貴重品らしいという話だったがね。ハハハ。王君はナカナカ眼が高いよ。
 ……ナニ……王君の正体は何だって聞くのか。……フフフ……それを聞いてドウするんだい。王君の親友が吾輩なんだから、大抵想像が付くだろう。序《ついで》に吾輩はこの船の機関長でも何でもない。だから最前から饒舌《しゃべ》り続けた経験談なんかは、ミンナ受け売りのゴッタ雑炊《ぞうすい》だ。トランクの中味がわかるまで君を釣っとくためのヨタだった……と云ったら、尚の事、焦点《フオカス》がハッキリしやしないか。ハッハッハッ……ナニ……日本のスパイ船……僕が参謀将校……ウフウフ。当らずと雖《いえど》も遠からずと云っておくかね。
 ……フーン。何だって、僕に秘密の相談がある? 何だ。云って見たまえ。ナニイ。聞いてる者が居ちゃ話せない。ウン。よしよし……。オイ。ボン州。こいつのオモチャを取り上げてくれ。モウ外《ほか》に何も持っていないな。万年筆と名刺だけか。よしよし。それだけ残しとけ。後で書かせる事があるかも知れないから……それから手前《てめえ》等はこの室《へや》を出て、扉《ドア》をピッタリと閉めておけ。用があったらベルを押すから……ナアニ。俺の事は心配するな。この坊ちゃんは話がよくわかっていらっしゃるんだからな……。
 サア。誰も居ない。鍵穴まで閉《ふさ》がっているんだ。その秘密の相談というのを聞こうじゃないか。何だ何だ。何だって服を脱ぐんだ。ハハア。裏に縫い込んだな。G《ゲー》・P《ペー》・U《ウー》の指令か。フウン。暗号だな。ウム。とうとう白状したね。日本の参謀本部が喜ぶだろう。青紅嬢が日本の諜報勤務を馬鹿にし過ぎたから君がコンナ眼に合うんだよ。
 ……何だ。まだ着物を脱ぐのかい。まだ何か縫い込んであるのかい……アッ……。君は婦人ですな……。
 イヤッ……これあどうも……最前《さっき》から平気で色眼鏡を外したり、僕と一緒に男便所へ入ったりされるから真逆《まさか》と思っておりましたが……ハハア……貴女《あなた》がサイ・メイ・ロン君の青紅嬢で、同時にRの四号君。ウムムム。チットも知らなかった。イヤもう解りました解りました。ズボンは脱がなくともいいです。わかっております……アッ……。
 ……ま……待った待った。待って下さい。ここじゃ困ります。危険です危険です。実際危険なんです。ま……ま……まあ着物を着て下さい。発見《みつか》ると都合がわるい……早く服装を直して下さい。そうそう。それからの御相談です。そうそう……イヤ。Rの四号君が貴女《あなた》だと解れば、一番喜ぶのは日本の参謀本部でしょう。G《ゲー》・P《ペー》・U《ウー》の指令系統がわからなくて困っているらしいんですからね。貴女に敬意を表さして下さい。そうして一つ僕と握手して下さい。これでも理解《わかり》は早いつもりです。ヘヘヘ。そうですそうです。これでも金儲けのために働いているコスモポリタンですからね。世界中が独裁政治《ファシスト》と共産政治《ボルセビイキ》の二つに別れる……ドチラも金が儲からないとあれあコスモポリタンになった方が便利ですからね。世界中のインテリはみんな一種のコスモポリタン式エゴイストですからね。そうですそうです……貴女と握手すれば随分大きな金儲《しごと》が出来ます。
 済みませんがモウ一度腰をかけて下さい。ナアニ。外に聞えるもんですか。外の雑音の方が高いのですから……電流《でんき》が来ているなんて云ったのは嘘の皮です。寝台の下には誰も居りません。御心配なら僕の椅子を取り換えて上げましょう。御覧なさい。コードも何も付いていないでしょう。ハハハ……。……いいですか……耳を貸して下さい。とりあえずここで必要な事だけ話しておきますから。いいですか……この船の正体は最早《もはや》お察しでしょう。日本の参謀本部の無電一本でどこへでも行く船なんです。第一長崎へなんか行きやしません。嘘だと思われるならば甲板《デッキ》へ上って、羅針盤《コンパス》を覗いて御覧なさい。チャンと大連《たいれん》行きのコースを取っておりますから。実は大連からツイ今さっき無線電信が這入りましたのでね……この珈琲《コーヒー》茶碗の内側に電文が暗号で書いてあります。この通り飲み残りを傾けると同時に出て来るでしょう。……あっちで又、似寄りの仕事があるのです。やっぱり王君のような人間が網を張っておりますからね。……そればかりじゃない。貴女が専門家ならすぐに気が付くでしょう。この船がタッタ今出しかけている速力に……二十一|節《ノット》一パイに出しかけているところですからね。
 ……ね。貴女と僕の立場が容易でない事がわかったでしょう。国事探偵としての貴女と僕の地位は、大将と兵卒ぐらい違うのですが、ここ暫くの間は僕に任せて下さらないと困りますよ。いいですか。貴女は依然として遊離細胞のR四号君ですよ。そのつもりで何でも僕の云うなりになって下さらないと……そうそう……それじゃいいですね。
 とりあえず甲板《デッキ》の部屋へ帰りましょうね。あそこでユックリ御相談しましょう。ナアニ。この船の中では船長以下が僕の命令通りに動きますから、心配は
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