、船長の襟元からビービービーッと吹っ込んだんだね。
 そいつを一等運転手《チーフメート》が腕ずくで押し止めようとする。そいつを又、乗客の中に居た、愛蘭《アイルランド》の海軍将校上りが感付いて、船中に宣伝して廻ったから堪《た》まらない。碧眼玉《あおめだま》をギョロ付かした乗客が、吾《わ》れも吾《わ》れもと船長室へ押しかけて、土気《トンパ》色になった船長を取巻いて、ドウスルドウスルと小突きまわす。一等運転手と事務長が、仲に這入って間誤間誤《まごまご》する。船長の名前は勘弁してくれだが、国辱にも何にもお話にならない。エムデン艦長といいコントラストが出来上った。……結局、そんな連中で、寄ってタカって、一か八かのコンニャク押問答をフン詰まらせたあげく、僕がその評議のマン中に呼び出される事になったもんだ。
 ……今以上にスピードが出せるか出せないか。それによってスエズへ直航するかしないか……又は新嘉坡へ引返すにしても、荷物を棄てるか、棄てないかを決定する……。
 という問題を持ちかけて来たから、僕は占《し》めたと思ったね。ここいらで一番、身代《しんだい》を作ってくれようかな……序《ついで》に毛唐《けとう》の胆《きも》っ玉《たま》をデングリ返してやるか……という気になって、ニッコリと一つ笑って見せたもんだ。
「お前さん方は運のいい船に乗り合わせたもんだ。一万|磅《ポンド》呉《く》れるなら、速力を今よりも五|節《ノット》だけ殖やしてやろう。むろん荷物は今のマンマで結構だ。モウ五|節《ノット》速くなったら、いくらエムデンでも追付かないだろう……しかし物には用心という事がある。万一お前さん方が、五|節《ノット》でもまだ足りないと思う場合にブツカルような事があったら、ソレ以上一|節毎《ノットごと》に、一万|磅《ポンド》ずつ、奮発してもらいたい。それでも足りなけあ紅茶を棄てる事だ。全速力三十一|節《ノット》まで請合う。それでも追付かなけあ諸君が海へ飛び込むだけの事《こっ》た」
 とチョッピリ威嚇《おどか》してやったもんだが、毛唐の物分りの早いのには驚いたね。チョット別室で相談したと思う間もなく、シャンとした奴が五六人引返して来て、二千|磅《ポンド》の札束を僕の前に突き出した。むろんアトの八千|磅《ポンド》はポートサイドへ着いてから渡すという、立派な証文附きだったが、流石《さすが》の僕もソン時には、チョット頭が下がったよ。何しろ大きな銀行が、ポケットの中でゴロゴロしていようという連中だからね。助かりたいのが一パイだったのだろう。船長や運転手までホッとしたような顔をしていたっけが、可笑《おか》しかったよソレア。何はともあれエムデン様々々々と拝みたくなったね。
 ……というのはコンナ訳だ。
 実をいうと三洋丸ぐらいの機械を持っていれあ、速力を五|節《ノット》増すくらいの事は屁《へ》の河童《かっぱ》なんだ。新しい機械の力はかなり内輪に見積ってあるもんだからね。……と云ったって、むろん船長や運転手なんかに出来る芸当じゃない。いわば僕一人の専売特許かも知れないがね。ずっと前、南支那海で海賊船がノサバッた時に、万一の場合を慮《おもんぱか》って、何度も何度も秘密《ないしょ》で研究して、手加減をチャント呑込んでいたんだから訳はない。僕は機関室へ帰ると直ぐに、汽鑵《ボイラー》の安全弁《バルブ》の弾条《バネ》の間へ、鉄の切《きれ》っ端《ぱし》を二三本コッソリと突込んで、赤い舌をペロリと出したものだ。
 タッタそれだけで一万|磅《ポンド》の仕事になった訳だが、何を隠そうコイツは立派な条令違反なんだ。発見《みつ》かったら最後、機関長の免状を取上げられるどころじゃない。ドエライ罰金を喰わせられた上に、懲役にブチ込まれる事になるんだから、ソレ位のねうち[#「ねうち」に傍点]はあるだろう。況《いわ》んや何百人の生命《いのち》と釣りかえの問題だからね。
 しかもタッタそれだけの手加減で、汽鑵《ボイラー》の圧力《プレス》がグングンせり上って、圧力計《ゲージ》の針がギリギリ一パイのところまで逆立ちしてしまった。同時に推進機《スクリュウ》の廻転がブルンブルン高まる。速力《スピード》が出たどころの騒ぎじゃない。素人が見たら倍ぐらい早くなったように思える。両舷を洗う浪の音がゴオオ……ッ……ゴオオオ――オオッと物凄く高まったもんだから、デッキに立っていた連中はスッカリ安心してしまったらしいね。今までの心配疲れも出て来たんだろう。一人一人に船室《ケビン》へ帰ってグーグー寝てしまった様子だ。そこで機械と睨めっくらをしていた僕も、この調子なら大丈夫と思って、椅子に腰をかけたままウトウトしていた……までは良かったが……アトが少々面白くなかった。
 その翌る朝のまだ薄暗い中《うち》の事だ。ポートサイドで札
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