らんやだ。試験官の直筆だったが及第《きゅうだい》も及第。とりあえずお芽出度う存ずる。就《つい》ては目下、当港(神戸)に停泊中の病院船、十字丸、三千二百噸の機関長の補充として御乗船願いたいが、御|意嚮《いこう》は如何《いかが》でしょうか。月給、百何十円。云々《うんぬん》……という孫悟空みたいな話だ。そんな時に又、頭が又シイーンとしちゃったね。明治四十年頃の百両といったら大したもんだ。幅が利くにも何にもドエライ出世だ。おまけに若い機関長のレコード破りというのが評判で、アタリ八方、持てたの候のってお話にならなかったが、実をいうとコイツが悪かったんだね。若い時の苦労は買ってもしろと云う位だ。あんまり早くから立身したり、世間に持てたりするのは碌《ろく》な事じゃあないんだ。お蔭でスッカリ身体《からだ》をヤクザにした上に、今の十字丸に乗ってから一年目に、瀬戸内海で推進機《スクリュウ》を振り落した。船に乗る時には十分に機械を調べて受取ったつもりだったが、推進機《スクリュウ》までブン擲《なぐ》っていなかったのが運の尽きだった。尤も瀬戸内《せとうち》だから助かったもんだ。ケープ沖か何かだったら、南極へ持って行かれたかも知れない。
……コイツがケチの付き初めで、それ以来僕の乗る船に碌《ろく》な事はない。新式タービンのパリパリが、ビスケー湾の檜舞台《ひのきぶたい》でヘタバッたり、アラスカ沖の難航で、陸地《おか》が鼻の先に見えながら、石炭が足りなくなったりする。そんな時には石炭の代りに、メリケン粉を汽鑵《かま》にブチ込んで、人間も船体《ふね》も真白にしてしまったものだがね。もちろんこっちの手落ちだった事は一度もないんだが、不思議に運が悪いんだ。とうとうコンナ瓦落船《がらくたぶね》に乗って、骨董みたいなお汽鑵《かま》の番をするところまで落ちぶれて来た訳だがね。ハッハッ……しかし、お蔭で君達の喜びそうな冒険を、イクラ体験して来たか知れやしない。今サッキ話しかけた推進機《スクリュウ》の一件を、モウ一度|印度《インド》洋で蒸《む》し返した時なんぞは、今思い出してもゾッとする目に会ったね。ちょうど欧洲大戦のショッ端《ぱな》で、青島《チンタオ》から脱け出した三千六百噸の独逸《ドイツ》巡洋艦エムデンが、印度近海を狼みたいに暴れまわっている時分のことだ。
大阪商船の濠洲《メルボルン》通いで、三洋丸という快速船《はやいの》があった。七千噸ばかりの客船《メイル》だったが、コイツが航路《コース》を切り変えて、一かバチかの欧羅巴《ヨーロッパ》行きを思い立ったもんだが、今のエムデンを怖がって行くものがないというので、とりあえず僕が器械の方を引受けて、新嘉坡《シンガポール》まで来たのが忘れもしない、大正三年の九月の十五日……暑い盛りだ。あすこでポートサイドからマルセール直航の男船客ばかりを三百五十何人と上等の紅茶を積めるだけ積んだ訳だが、コイツが無事に地中海へ這入れば、むろん大儲けさ。欧羅巴全体が敵も味方も咽喉《のど》を鳴らして待っている極上《ごくじょう》飛切《とびき》りの紅茶バッカリと、金《かね》ずく[#「ずく」に傍点]を通り越したお客バッカリ満載しているんだからね。紀州の蜜柑船《みかんぶね》どころの騒ぎじゃない。三井の遣る事は凄いよ……そこで聯合《れんごう》艦隊の無電を受けながら、勇敢に印度洋のマン中目がけて乗り出してみるとドウダイ。陸影《おか》を離れてから間もない三日目の、二十三日の朝早く、無電技手が腰を抜かしたまま船橋《ブリッジ》から転がり落ちて来た。……昨夜《ゆうべ》の真夜中にエムデンが突然、向う岸のマドラス沖に現われて、石油タンクの行列を砲撃した。エドワード砲台が泡《あわ》を喰って、闇夜の大砲をブッ放《ぱな》したが、その時には最早《もはや》エムデンは居なかった。三洋丸はそのまんまで行けば、そろそろエムデンの逃路《コース》にぶつかるかも知れない。気を付けろ……といったような無電が、ビーッ……ビ――ッと這入って来たと云うんだ。
イヤモウ……みんな青くなったの候のって……覚悟の前とか何とか、大きな事を云っていた船長が、日本人の癖にイの一番に慌て出して、全速力《フルスピード》で新嘉坡《シンガポール》へ引返《ひっかえ》すと云い出したもんだ。つまりエムデンの死に物狂いのスピードが、先ず二十七八|節《ノット》で、三洋丸のギリギリ決着が二十三四|節《ノット》だから、見付かったら最後、物が云えないという算盤《そろばん》を取ったんだろう。しかも、それ位の算盤なら何もわざわざ、印度洋のマン中まで出て来て弾《はじ》くが必要《もの》はないのだ。忠兵衛さんじゃあるまいし。大阪を出た時からチャンと見当が付いている筈なんだが、要するに今の無電と一所《いっしょ》に、新規|蒔《ま》き直しの臆病風が
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