づいていたように思うが、しかし白鷹氏は依然として私を見据《みす》えたまま、両手をポケットに突込んでいた。エタイのわからぬ人間に口を利くのは危険だと感じているかのように……。
 こうしてまたも十秒ばかりの沈黙が続くうちにまたも、広間《ホール》の方向で浮き上るようなツウ・ステップのレコードがワアア――ンンと鳴り出した。
 私の腋の下から氷のような冷汗がタラタラと滴《したた》った。私はまたも、たまらなくなって唇を動かした。
「ところで……奥さんの御病気は如何《いかが》です」
「……エ……」
 この時の白鷹氏の驚愕《きょうがく》の表情を見た瞬間に、私は最早《もう》、万事休すと思った。
「妻《かない》が……久美子が……どうかしたんですか」
「ええ。三越のお玄関で卒倒なすったそうで……」
「ええッ。いつ頃ですか」
「……今朝の……九時頃……」
 ドット言う哄笑《こうしょう》が爆発した。長椅子に腰をかけて耳を澄ましていたタキシード連が、腹を抱《かか》えて転がり始めた。笑いを誇張し過ぎて床の上にズリ落ちた者も在った。
 私は極度の狼狽《ろうばい》に陥った。失敬な連中……と思いながら私は、矢庭にその連中
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