このミス・プリントを見ろ」
「イヨオオ。おごれ、おごれ」
「まだまだ、明日になってみなくちゃ、わからねえ。フィアンセがアホイワンセになるかも知れねえ」
「アハハハ。ちげえねえ。解消ガールって奴がいるかんな。タキシの中で解消するってんだかんな。タキシはよいかってんで……」
「始めやがった。モウ担《かつ》がれねえぞ」
「ハアアア……アアア……何のかんのと言うてはみてもオ……抱いてみなけりゃあエエ……アハハ。何とか言わねえか……」
「エエイ。近代魔術はタンバリン・キャビネット応用……タキシー進行中解消の一幕。この儀お眼に止まりますれば次なる芸当……まあずは太夫、幕下までは控えさせられまあす」
「いよオオ――オオ(拍手)どうだいフロックの先生。雇ってくんないかい」
 私はいよいよ逃腰になってしまったが、その時に向うの扉が静かに開いたので、もしやと思って固くなっていると、最前の給仕を先に立てて、私と同じくらいに固くなった一人の紳士が入って来た。それは本格の舞踏服に白チョッキを着込んだヒョロ長い中年紳士であったが、赤白ダンダラの三角帽を右手に持って、左の掌に載せた[#「載せた」は底本では「戴せた」]名刺を、私の顔と見比べ見比べ、私の前に立ち止まると、青白い憂鬱な顔をしてジイッと見下した。
 酔っ払った長椅子の連中がシインとなった。めいめいに好奇の眼を光らして相手の紳士と、私の顔を見比べ始めた。
 私は九州帝国大学在学当時の白鷹氏の写真を一葉持っている。九大耳鼻科部長、K博士を中心にした医局全員のものである。それを白鷹氏の話が出るたんびに妻や姉に見せて、その時代の事を追懐したものであった。
 だから私はこの時に、この紳士は白鷹先生である事を直ぐに認める事が出来た。そうして長い年月の間どうしても会えなかった同氏に、かくも容易《たやす》く会えた事を、衷心から喜んでホッとした。

 私はとりあえず眼の前の白鷹先生の前額から後頭部へかけて些なからず禿《は》げていられるのに驚いた。今更に今昔の感に打たれたが、しかし姫草看護婦から聞いた印象によって、白鷹先生が非常に磊落《らいらく》な、諧謔《かいぎゃく》的な人だと信じ切っていたので、イキナリ頭を一つ下げた。
「ヤア。白鷹先生じゃありませんか。僕は臼杵です。先日はどうもありがとうございました」
 と笑いかけながら一、二歩近寄った。言い知れぬ懐かしさと、助かったという思いを胸に渦巻かせながら……。
 ところが私はその次の瞬間に面喰らわざるを得なかった。非常に不愉快な、苦々しい表情をしいしい、微かに礼を返した白鷹先生の、謹厳この上もない無言の態度と、数歩を隔てて真正面に向い合った私は、ものの二、三分間も棒を呑んだように固くなって、突立っていなければならなかった。多分白鷹氏は、こうした私の面会ぶりがあまりにも突然で狃《な》れ狃れしいのに驚いて、面喰っておられた事と思う。況《いわ》んや久しく物も言った事のない人間にイキナリ「先日はありがとう」なぞと言いかけられたら誰だって一応は警戒するにきまっている。ことによると物慣れた氏が、幹事役だけに私を、こうしたダンス宴会荒しの所謂《いわゆる》フロック・ギャングと間違えられたものかも知れないが、その辺の消息は明らかでない。とにも角にもこうして二、三分間|睨《にら》み合ったまま立ち辣《すく》んでいるうちに、私はとうとう堪えられなくなって次の言葉を発した。
「どうも……何度も何度もお眼にかかり損ねまして……やっとお眼にかかれて安心しました」
 こうした私の二度目の挨拶は、だいぶ固苦しい外交辞令に近づいていたように思うが、しかし白鷹氏は依然として私を見据《みす》えたまま、両手をポケットに突込んでいた。エタイのわからぬ人間に口を利くのは危険だと感じているかのように……。
 こうしてまたも十秒ばかりの沈黙が続くうちにまたも、広間《ホール》の方向で浮き上るようなツウ・ステップのレコードがワアア――ンンと鳴り出した。
 私の腋の下から氷のような冷汗がタラタラと滴《したた》った。私はまたも、たまらなくなって唇を動かした。
「ところで……奥さんの御病気は如何《いかが》です」
「……エ……」
 この時の白鷹氏の驚愕《きょうがく》の表情を見た瞬間に、私は最早《もう》、万事休すと思った。
「妻《かない》が……久美子が……どうかしたんですか」
「ええ。三越のお玄関で卒倒なすったそうで……」
「ええッ。いつ頃ですか」
「……今朝の……九時頃……」
 ドット言う哄笑《こうしょう》が爆発した。長椅子に腰をかけて耳を澄ましていたタキシード連が、腹を抱《かか》えて転がり始めた。笑いを誇張し過ぎて床の上にズリ落ちた者も在った。
 私は極度の狼狽《ろうばい》に陥った。失敬な連中……と思いながら私は、矢庭にその連中
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