午後の八時半頃であったろうか。実は女風情の言う通りになるのがこの際、少々|業腹《ごうはら》ではあったが、自動車に乗り込むと同時に気が変って、狭苦しい迷宮じみた下六番町あたりの暗闇を自動車でマゴマゴするよりも、解り易い丸の内倶楽部へアッサリと乗付けたい気持になったからであった。
 倶楽部の玄関で給仕に聞いてみると、
「庚戌会は今晩でございます。七時頃から皆さんお揃いで、モウかなりプログラムが進行しております」
 という返事であった。
 私は黙って、その給仕に案内されて広やかなコルク張の階段を昇って行ったが、登って行くにつれて、階中に満ち満ちている高潮したレコードと舞踏のザワメキに気が付いた。
 私はダンスは新米ではあるが自信は相当ある。ジャズ、タンゴ、狐足《フォクストロット》、靴拭《チャルストン》、ワンステップ、何でも御座れの横浜仕込みだ。今やっているのはスパニッシュ・ワン・ステップのマルキナものらしいが、相当浮き浮きした上調子なもので、階段を上って行くうちに給仕の肩に手をかけたくなるような魅惑を感じた。
 どうも驚いた。庚戌会と言えば謹厳な学術の報告会、兼、茶話会みたようなものと思ったが、なかなかどうしてエライ景気だわい。会費の十円の意味も読めるし、幹事の白鷹君の隅に置けない手腕のほども窺われる。こんな事なら鹿爪らしいフロック・コートなんか着て来るんじゃなかった……と思ううちに待合室みたような部屋へ案内された。見ると周囲《まわり》の壁から卓子《テーブル》の上、椅子、長椅子、小卓子《サイドテーブル》の上までも帽子と外套の堆積[#「堆積」は底本では「推積」]で一パイである。かれこれ五、六十人分はあるだろう。大会だけによく集まったものだ。
「ここでちょっとお待ちを願います。今お呼びして参りますから……」
 といううちに給仕は右手の扉《ドア》を押して会場に入った。トタンにジャズの音響が急に大きく高まって、会場の内部がチラリと見えたが、その盛況を見ると私はアット驚いた。
 扉の向うは恐ろしく広いホールで、天井一面に五色の泡《あわ》みたようなものがユラユラと霞んでいるのは、会員の手から逃出した風船玉であった。その下を渦巻く男女は皆タキシード、振袖、背広、舞踏服なんどの五色七彩で、女という女、男という男の背中からそれぞれに幾個かの風船玉が吊り上っている。その風船玉の波が、盛り上るような音楽のリズムに合わせて、不可思議な円型の虹のように、ゆるやかに躍り上り躍り上りホール一面に渦を巻いている。桃色と水色の明るい光線の中に……と思ううちに扉がピッタリと閉じられた。
 扉が閉じられると間もなくレコードの音《ね》が止んだ。それに連れて舞踏のザワメキが中絶して、シインとなったと思う間もなく、タッタ今閉まった扉が向側から開かれて、赤白ダンダラの三角の紙帽を冠ったタキシードが五、六人ドヤドヤと雪崩《なだ》れ込んで来て、私の眼の前の長椅子に重なり合って倒れかかった。襟飾《ネクタイ》の歪んだの……カフスのズッコケたの……鼻の横に薄赤い、わざとらしい口紅《ミスプリント》の在るもの……皆グデングデンに酔っ払っているらしく、私には眼もくれずに、長椅子の上に重なり合って、お互いに手足を投げかけ合った。
「ああ……酔っ払ったぞ。おい……酔っ払ったぞ俺あ……」
「ああ、愉快だなあ……素敵だなあ、今夜は……」
「ウン。素敵だ……白鷹幹事の手腕恐るベしだ。素敵だ、素敵だ……ウン素敵だよ」
「驚いたなあ。ダンス・ホールを三つも総上げにするなんて……白鷹君でなくちゃ出来ない芸当だぜ」
「……白鷹君バンザアイ……」
 と一人が筒抜けの大きな声を出したが、その男が朦朧《もうろう》たる酔眼を瞭《みは》って、両手を高く揚げながら立ち上ろうとすると、真先に私のいるのに気が付いたと見えて、ビックリしたらしく尻餅を突いた。尻の下に敷かれた友人の頭が虚空を掴んでいるのを構わずに、両手で膝頭を突張って、真赤なトロンとした瞳《め》で私のフロック姿を見上げ見下していたが、忽《たちま》ちニヤリと笑いながら唇を舐《な》めまわした。
「ヘヘッ……手品が来やがった」
「何だあ。手品だあ。何処でやってんだ」
「それ。そこに立ってるじゃないか」
「何だあ。貴様が手品屋か。最早《もう》、遅いぞオ。畜生。余興はすんじゃったぞオ」
 私は急に不愉快になって逃げ出したくなった。相手の不謹慎が癪に障ったのじゃない。コンナ半間な服装で、こうした処へ飛び込んで来て、棒のように立辣《たちすく》んでいる私自身が情なくて、腹立たしくなって来たのだ。しかし折角ここまで来たものを白鷹氏に会わないまま帰るのも心残りという気もしていた。
「オイ。出来たかい、フィアンセが……」
「ウン。二、三人出来ちゃった」
「二、三人……嘘つきやがれ」

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