の顔を睨み付けたが、これは睨んだ方が無理であったろう。
そのうちに血色を恢復した白鷹氏の唇が静かに動き出した。
「おかしいですね。妻は……久美子は今朝から教会の会報を書くのだと言って何処へも行きません。無事に自宅《うち》におりましたが」
「ヘエッ……嘘なんですか。それじゃ……」
「……嘘? ……僕は……僕はまだ、何も言いませんが君に……初めてお眼にかかったんですが……」
またドッと起る爆笑……。
「……姫草ユリ子の奴……畜生……」
白鷹氏は突然に眼を剥《む》き出して、半歩ほど背後《うしろ》によろめいた。……が直ぐに踏止まって、以前の謹厳な態度を取り返した。心配そうに息を切らしながら、私の顔を覗き込むようにした。
「……姫草……姫草ユリ子がまた……何か、やりましたか」
「……エッ……」
私は狼狽に狼狽を重ねるばかりであった。
「……また、何か……と仰言るんですか先生。先生は前からあの女……ユリ子を御存じなのですか」
私は思わず発したこの質問が、如何に前後撞着した、トンチンカンなものであったかを気付くと同時に、自分の膝頭がガクガクと鳴るのをハッキリと感じた。……助けてくれ……と叫び出したい気持で、白鷹氏の次の言葉を待った。
その時に最前のとは違った給仕が一人、階段を駆け上って来る音がした。
「横浜の臼杵先生がお出でになりますか」
「僕だ、僕だ……」
私はホッとしながら振り向いた。
「お電話です。民友会本部から……」
「民友会本部……何と言う人だ」
「どなたかわかりませんが、横浜からお出でになった代議士の方が、本部で卒倒されまして、鼻血が出て止まりませんので……すぐに先生にお出でが願いたいと……」
「待ってくれ……相手の声は男か女か……」
「御婦人の声で……お若い……」
給仕は何かしらニヤニヤと笑った。
「……馬鹿な……名前も言わない人に診察に行けるか。名前を聞いて来い。そうして名刺を持った人に迎えに来いと言え」
これは私のテレ隠しの大見得と、同席の諸君に解せられたに違いないと思うが、その実、あの時の私の心境は、そんなノンビリした沙汰ではなかった。……卒倒して鼻血……という言葉がアタマにピンと来た私は、すぐに今朝ほどの白鷹婦人に関する彼女の報道を思い出したのであった。
彼女……姫草ユリ子は、鼻血が出て止まらない場合に、耳鼻科の医師が如何に狼狽し、心配するかを、何処かで実地に見て知っていたに違いない。だから私が裏切り的に庚戌会に出席した事を、電話か何かで探り知った彼女は、狼狽の余り、おなじ日に、おなじ種類の患者を二度も私にブツケルようなヘマな手段でもって、私と白鷹氏の会見を邪魔しようと試みたものであろう。絶対絶命[#「絶対絶命」はママ]の一所懸命な気持から、果敢《はか》ない万一を期したものではあるまいか。もちろん偶然の一致という事も考えられない事はないが、彼女を疑うアタマになってみると断じて偶然の一致とは思えない。私は彼女……姫草ユリ子の不可思議な脳髄のカラクリ細工にマンマと首尾よく嵌《は》め込まれかけている私の立場を、この時にチラリと自覚したように思ったのであった。
私は一生涯のうちにこの時ほど無意味な狼狽を重ねた事はない。
私はそのまま列席の諸君と白鷹氏にアッサリと叩頭《おじぎ》しただけで、無言のままサッサと部屋を出た。またも湧き起る爆笑と、続いて起るゲラゲラ笑いとを、華やかに渦巻くジャズの旋律と一緒にフロックの背中に受け流しながら、愴惶《そうこう》として階段を駈け降りた。通りがかりのタキシーを拾って東京駅に走りつけた。そうして気を落ち着けるために、わざと二等の切符を買って、桜木町行きの電車に飛び乗った。何だか横浜の自宅に容易ならぬ事件でも起っているような気がして……妻《かない》が愛読している探偵小説の書き振りを見ても、留守宅に大事件が起るのは十中八、九コンナ場合に限っているのだから……と言ったような想像が、別段考えるでもないのにアトからアトから頭の中に湧き起って、たまらない焦燥と不安の中に私を逐い込んで行くのであった。あの時の私の脈膊《プルス》は、たしかに百以上を打っていたに違いない。
けれどもそこで無人の二等車の柔らかいクッションの上にドッカリと腰を卸《おろ》して、ナナの煙を一ぷく吹き上げると間もなく、私の心境にまたも重大な変化が起った。窓越しに辷《すべ》って行く銀座の、美しい小雨の中のネオンサインを見流して行くうちに、現在、何が何だかわからないままに、無意味に、止め度もなく面喰らわされているに違いない私自身を、グングンと痛切に自覚し始めたのであった。
……俺はなぜアンナに慌《あわ》てて飛び出して来たのだろう。なぜ、もっと突込んで姫草の事を白鷹氏に尋ねてみなかったのだろう。白鷹氏は彼女の事に就いてモ
前へ
次へ
全57ページ中16ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夢野 久作 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング