しても逃れる事の出来ない運命に囚《とら》われてしまったような物悲しい気持になってしまったのでした。
……ああ……馬鹿な私……不覚な私。校長先生が評判の通りの聖人でない。ほかの女の方とここで会う約束をしておられた……その女の方と私とを間違えておられる事を、あの時にどうした訳かミジンも察し得ずにいたのでした。多分、私の心の奥底に残っておりました尊敬の心が、校長先生を疑う事を許さなかったのでしょう。
……ああ……浅墓《あさはか》な私……私は校長先生のお金に関する醜いお仕事の数々を知り過ぎるくらい、存じておりました。けれども女性に対しては、どこまでも潔白なお方と信じ切っていたのでした。よしんば馬鹿騒ぎをなさる事はあっても、校長先生お一人は、男性としての貞操を何処までも、お亡くなりになった奥様に対して守ってお出でになる感心なお方とこの時までも思い込んでいたのでした。その聖人同様の校長先生にコンナ秘密の悩みがあるとは何と言うお気の毒な事であろう。私にソレを打ち明けて下さるとは何と言う勿体《もったい》ない事であろう……としみじみ考えておりますうちに私はもう、何もかもわからなくなるほど悲しくなって、泣けて泣けて仕様がなくなりました。ただメチャメチャに悲しい思い出を頭の中に渦巻かせながら、校長先生のお胸にグッタリと取り縋っておりました。
そのうちに時間がグングン流れて行きました。
……ああ……けれども、それは何と言う悲しい、浅ましい一刹那の夢で御座いましたろう。
間もなく入って来られました虎間トラ子先生……私たちがデブさんと言っておりましたあの古参の英語の先生に、私がドンナに非道《ひど》い目に会わされました事か。そうして真暗闇の中で、どんなに一所懸命の力を出して虎間先生を突飛ばして廃屋の外へ逃げ出しましたことか。
そうして一旦《いったん》コンクリート塀の外へ飛び出してから、直ぐにまた、弓の道場の間に忍び込んで、あの廃屋の横の切戸の隙間に耳を近付けて、ドンナに真剣に、お二人の口争いに耳を傾けておりましたことか。
その時に校長先生が、どんなに狼狽《ろうばい》してお出でになったことか。お顔色こそわかりませんでしたが多分、真青になっておられたことでしょう。暗黒に狃《な》れて来た眼でソッと覗いてみますと、運動会用の大きな張子の達磨《だるま》様のお尻の間に平突張《へいつくば》って、
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