夕暗の中を、あの廃屋に近付いたのです。そうしてあの階下の土間の暗闇の中に、そっと片足を入れたのです。

 その暗闇の中から突然に出て来た毛ムクジャラの男の両腕に、私はシッカリと抱締められて終《しま》ったのでした。そうして思いもかけない切ない愛の言葉を、生まれて初めて囁《ささや》かれたのでした。
「……よく来て下さいました。ありがとう御座います。ほんとによく来て下さいました。この独身者《ひとりもの》の憐れな年寄の悩みを救って下さるのは貴女《あなた》お一人です。貴女なしには私は生きて行けなくなったのです。どうぞこの独身者の淋しい教育家を憐れんで下さい……ね……ね。お互いにタッタ一人の淋しい気持は、わかり合っておるのですから……ね……ね……ね……」
 そのお声が……そのお言葉が……たしかに校長先生のソレとわかりました時の、私の驚きはドンナでしたろう。
 私の全身が、心臓の動悸と一緒に石になってしまったようでした。
 ……どうして私がここに来ることを御存じでしたろう……とその刹那《せつな》に思うことは思いましたが、考えてみますと職員室の一番左の窓から裏門が透かして見える事を思い出しましたから、多分何かの御用事で職員室へ来ておられた校長先生が私の姿をお見付けになって、先まわりをなすって弓術道場の板塀の蔭から来られたのではないか知らん……なぞと混乱した頭で考えた事でした。もともとお人好の私は、あんなような場合でも、出来るだけ校長先生のなさる事を善意に解釈しようしようと本能的に努力していたのでしょう、そんなような先生のお言葉にもさほどの不自然さを感じませんでしたばかりでなく、何よりも先に校長先生がこんな思いがけない非常識な事をなさるのはよくよくの事だろうと気が付きますと、私の持前の気弱さからどうしても逆《さか》らってはいけないような気持になりながら、暗黒の中で両腕を握られたまま、固くなって俛首《うなだ》れておりました。
 ああ……意気地のない私……私はあの時にチョットでも声を立てたりすると、世間の名高い校長先生の御名誉と地位の一切合財をすっかりめちゃめちゃにして終《しま》うであろう恐ろしさに包まれて、身動き一つ出来なくなっていたのでした。
 ……ああ……可哀そうな私……「お互いに淋しい心はわかっている」と仰言った校長先生のお言葉に私は、われにもあらず打たれてしまったのでした。どう
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