投影の中を一散に走って、直方駅構内の貨物車の間を影のようにスリ抜けて、ほど近い日吉町の日吉旅館の裏手に来た青年は、素早く前後を見まわして、警戒のないのを見定めてから蔦蔓《つたかずら》の一パイに茂り絡んだ煉瓦塀をヒラリと飛越えた。やはり案内を知っているらしい裏庭伝いに、湯殿の出入口からコッソリと忍び込むと、直ぐに上衣を脱いで、まだ落してない垢《あか》臭い湯の中に頭と顔を突っ込んでジャブジャブと洗い上げ、水槽の水面に口を近づけてさも美味そうにしてゴクゴクと飲み終ると、鏡台の前のポマードを手探りにコテコテ頭を塗りつけて在り合う櫛《くし》で念入りに二つに分けた。それから大急ぎで洋服を脱いで、衣桁《いこう》に引っかけてあった浴衣《ゆかた》に手早く袖を通し、泥だらけの洋服とワイシャツとズボンを丸めて、番号札のついた脱衣戸棚と天井裏との間に出来ている暗がりに突込んだ。それから湯殿のタイルの上に落ちていた赤い古タオルを拾い上げてシッカリと絞り切ったのを片手に提げて、普通のお客のように落ちつきはらいながら廊下に出ると、ちょうど向うから来かかった新米らしい若い女中にニッコリして見せた。
「君……僕の部屋は
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