むことにしました。
その能の前日のこと、A先生は同地の旅館の一室で私たちに俊寛の面を出して見せて、「震災でよごれたから手入れに遣《や》ったらこんなに白く塗りかえてしまった。弱く見え過ぎて困っているんだが……」と云いました。「ヘエ」と云いながら私は手を支《つ》いて黙って見ておりますとうしろからその地方の富豪でBという人が、「C未亡人の処に素敵な俊寛の面がある」と耳打ちをしました。そこに居る人々の中で私だけがC未亡人に面識があることをB氏は知っていたらしいのです。私は誰にも云わずに只一人でC未亡人を訪れて、「突然でまことに何ですが、御秘蔵の俊寛の面を拝見さして頂けますまいか」と頼みました。すると未亡人は暗い顔になりまして、「それはお気の毒様ですが今はこちらに御座いません。或る方が東京へ持って行かれまして、どうしてもお返しになりませんので」と答えました。私はその時に、その「ある方」というのが、亡くなられた御主人C氏の謡曲の先生で、某流のD氏であることを直覚しました。同時にC未亡人の好意を感謝してお暇《いとま》をしましたが、実はガッカリしてしまいました。もしその「俊寛」が良い面で、明日の能に
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