対するA先生の不安を一掃することが出来たら……という私の期待がスッカリ裏切られたからであります。
私はC夫人の家《うち》を出ると、夕日のさす町を歩きながらいろんな事を考えさせられました。もしその面が、或る深い因縁から来た執着でD氏の手に持って行かれたものとしたら、それをC夫人のために取り返すにはどうしたらいいであろう。又もしDさんが若い美しい婦人であるとして、A先生の内弟子のE君か誰かをお使いに立てて取り返しに遣ったら什麼《どんな》ことになるであろう。それとも又その面が此間《こないだ》の震災で焼失していたらどうであろう。もしくはその面だけが焼け残ってD氏が白骨となっていたら……なぞとそれからそれへ妄想をつづけて、何だか纏まったものになりそうに思われた時に私はあぶなく転びそうになりました。見るといつの間にかゴロゴロした砂利道へ這入《はい》っています。その途端《とたん》に私はゆうべ紅茶に浮かされて寝られなかったことを思い出しまして、これは頭がだいぶ疲れているなと気が付きましたからそのまま諦めてしまいました。そうして能が済んで本職に帰ると、このことも全く忘れていました。
それから久しい間|経《た》った今年の正月の末に、私は義弟のF学士の処に一晩泊りました。Fの家《うち》はFの母と姉と、私の妹であるFの妻と、Fの若い妹二人という家庭でしたが、老母と姉とを除いた全部がとても探偵小説好きで、「トリック」だの「ウイット」だの「アリバイ」だのと、中学卒業程度の私にはわかりかねる術語を使ってすごい話ばかりしているのです。その晩もそんな話をきかされながら紅茶に浮かされて夜を更《ふ》かしているうちに、フト俊寛の面のことを思い出しました。そうして何だか筋がまとまったように思いましたから、ほかで読んだことのようにして話してきかせますと、F学士は飛び上って、「そいは面白い。兄さんの創作に違いない。新青年の募集に応じたらどうです」と大騒ぎをしてすすめます。妹たちはもう一等当選にきめて奢《おご》る約束までするのです。
私は考えました。もう締切りまでに間《ま》はないし、職業は三通りもあるし、とてもと思いましたが、少々勢づけられていた上に、コソコソと物を書くことが好きなので筆を執ろうとしますと、第一に能面では説明に苦しむ処や筋が面白くなくなるところがある事に気が付きました。鼓でも似たものですが、
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