るのに、何故あんな暗い処に在る石を選んだものでしょうか。……それから今一つ、兇器の柄がシッカリ嵌《はま》っていない事を、犯人は最初から気附かずにいたものでしょうか。どうでしょうか。そのような点はドウ考えますか」
「それは……恐らく加害者が、兇行間際の緊張した気持から、新しい兇器の柄に不安を感じた結果、何かでシッカリと柄を打込むべく外へ出たものであろうと考えます。ところがあの小高い深良屋敷の台所に近い敷石の上を動く人影は、木《こ》の間《ま》隠れではありますが空を透《とお》しておりますために、雨天でない限りは、どんな暗夜《やみよ》でも下の国道から透《すか》して見え易い事を、用心深い犯人がよく知っていたに違いありませぬ。ですから軒下の暗闇づたいに近付いて行けるあの真暗い背戸の山梔木《くちなしのき》の樹蔭《こかげ》に在る砥石を選んだものではないかと考えます。あそこならば物音が、奥座敷へ聞えかねますから……」
「イヤ。よろしい。熱心にやって下すった事を感謝します。それでは今のお話のオナリ婆さんの変態的な性格についてですね……どんな風にオナリ婆さんが、一知夫婦を窘《いじ》めたかに就《つ》いてですね……出来るだけ秘密に……そうしてモット具体的に確かめられるだけ確かめておいて下さい。こちらはこの写真によって直ぐに調査を進行させますから……」
「……ハ……ありがとう御座います」
草川巡査は三拝九拝せんばかりにして裁判所を出た。乗合自動車《バス》に乗って日の暮れぬ中《うち》に谷郷村に帰った。
翌日になると、早速、鶴木検事の手が動き出した。
青年深良一知の顔だけの拡大写真が幾枚となく複製された。それを携えた刑事や警官が、町中の、ありとあらゆる金物店について調査を進めた結果、ちょうど七月十五日の氏神祭の日のこと、写真にソックリの学生風の青年が、乗馬|倶楽部《くらぶ》の者だと云って新しい藁切庖丁《わらきりぼうちょう》を一|梃《ちょう》買って行った。学生に不似合な買物だったので店員が皆不思議がっていた……という店が二日目の夕方になってヤット発見された。
その翌日になると又も思い出したように本署から来た二名の刑事と、草川巡査が、谷郷村の青年を招集して、大々的な兇器捜索を開始したので、忘れられかけていた事件の当初の恐怖的な印象が今一度、村の人々の頭に喚起《よびおこ》されたが、その最中《さなか》に突然、一知青年が自宅から本署へ拘引されて行ったので、村の人々は青天の霹靂《へきれき》のように仰天した。腎臓病の青膨れのまま駈着《かけつ》けて来た父親の乙束区長がオロオロしているマユミを捉《つかま》えて様子を訊《き》いてみたが薩張《さっぱ》り要領を得ない。仕方なしに山の中で兇器捜査に従事している草川巡査に縋《すが》り付いて、何とかして息子を救う方法は無いものかと泣きの涙で尋ねたが、これも腕を組んで、眼を閉じて、頭を左右に振るばかりである。もとより拘引の理由なぞを洩しそうな態度《ようす》ではないので、手も力も尽き果てた区長は大急ぎで町へ出て弁護士の家へお百度詣りを始めた。
一方に拘引された一知は全く驚いた顔をしていた。
厳重な取調を受けても一から十まで「知りませぬ」「わかりませぬ」の一点張りで、女のようにヒイヒイ哭《な》くばかりであった。その中《うち》に問題の藁切庖丁を売った店の番頭が呼出されて来て、一知の顔を見せられると、たしかにこの人に相違ないと明言し、当日持っていた蟇口《がまぐち》の恰好や、学生らしくない言葉癖まで思い出した立派な証言をして帰ったので、係官一同はホッと一息しながら、直ぐに起訴の手続を取った。
しかし一知は、それでも頑張った。
「私は誰にも怨恨を受ける記憶はありませぬ。しかし藁切庖丁の一件はたしかに私を罪に陥れるためのトリックです。それがわからないのは、貴方《あなた》がたのお調べが足りないからです。在りもしない藁切庖丁で、どうして人を殺すことが出来ますか」
とまで強弁した。
谷郷村では草川巡査の評判が一ペンに引っくり返ってしまった。
犯人は居ないものと決めてしまっていた村の人々は、殆んど一人残らず一知に同情して、草川巡査を憎むようになった。タッタ一人深良屋敷に取残されていたマユミを乙束区長が引取って世話をするようになってからは一層、村民の憎しみが、草川巡査の上に深くなって行ったところへ、町からたまたま来た刑事までもが……これは草川巡査と鶴木検事の一代の大|縮尻《しくじり》かも知れない……などと言葉を濁して行ったりしたので、村の連中は最早《もはや》、一知の無罪を信じ切って疑わないようになって来た。しまいには……草川巡査はズット以前から巡廻の途中で、いつも深良屋敷へ寄道をする事にきめていた。そうしてマユミがタッタ一人で留守をしている
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