引っぱると一本一本にみんな抜けちゃったの。……ええ……電燈を消していたんだから外から見たってわかりやしないわ。……その穴からヤングが先に脱《ぬ》け出して、あとから這い出した私を抱え卸《おろ》してくれたの。
 それは浦塩附近《ここいら》に初めて雪の降った晩で、あの屋根の白い斑雪《まだらゆき》もその時に積んだまんまなのよ。風は無かったようだけど星がギラギラしていてね……その横路地に白い舞踏服姿の妾が、寝台《ベッド》から取って来た白い毛布にくるまってガタガタに寒くなりながら立っていると、ヤングは大急ぎで、向家《むこう》の横路地の間から、隠しておいた支那米の袋を持って来て妾の頭の上からスポリと冠せてくれたの。そうしてそのまんま地びたの上にソッと寝かして、足の処をシッカリとハンカチで結《ゆわ》えるとヤットコサと荷《かつ》ぎ上げながら、低い声でこんな事を云って聞かせたのよ。
「さあ……ワーニャさんいいですか。暫くの間辛いでしょうけども辛棒して下さい。私がもう宜しいって云うまでは、決して口を利いたり声を立てたりしてはいけませんよ」
 ってね……。だけど妾は、その袋があんまり小さくて窮屈なのでビックリしちゃったわ。妾の身体《からだ》は随分小さいんだけど、それでも足を出来るだけグッと縮めなければ袋の口が結ばらないのですもの。おまけにその臭かったこと……停車場のはばかりみたいな臭いがしてね。ホコリ臭くて息が詰りそうで、何遍《なんべん》も何遍も咳《せき》が出そうになるのをジッと我慢しているのがホントに苦しかったわ。
 それからどこを通って行ったのか、よくわからないけど、何でもこのスウェツランスカヤから横路地伝いに公園の横へ出て、公使館の近くを抜けながら海岸通りへ出たようなの。途中で下腹や腰のところがヤングの肩で押えられて痛くてしようがなかったけど、やっとの思いで我慢していたわ。ええ。それあ怖かったわ。ヤングが時々立ち止まるたんびに誰か来たのじゃないかと思ってね……。
 海岸に来るとヤングは、そこに繋いであった小さい舟に乗り込んで、妾をソッと底の方へ寝かして、その上に跨《また》がって自分で櫂《かい》を動かし始めたようなの……そこいらは、まだ暗くて、波の音がタラリタラリとして、粗《あら》い袋の目から山の手の燈火《あかり》がチラリチラリと見えてね……妾は息が苦しいのも、背中が痛いのも、それから足を伸ばしたくてたまらないのも忘れて、時々聞える汽笛の音に耳を澄ましながら胸をドキドキさせていたわ。これが故郷のお別れと思ってね……そうかと思うと亜米利加《アメリカ》の町をヤングと連れ立って散歩している自分の姿を考えたり……ヤングと妾の幸福のために、イーコン様にお祈りを捧げながら、ソッと小さな十字架を切ったりしていたわ。
 そうすると間もなく、今までと丸で違った波の音が聞え出して、小舟が軍艦に横付けになったようなの。その時に妾は又ドキンとして荷物のつもりで小さくなっていると、こっちからまだ何も云わないのに、上の方から男の足音が二人ほど、待っていたようにゴトゴトと音を立てて降りて来たの。そうしてその中《うち》の一人が低い声で、
「へへへへへ。今までお楽しみで……」
 って云いかけたら、ヤングが同じように低い声で、
「シッ。相手は通じるんだぞ……英語が」
 って叱ったようよ。そうすると二人ともクツクツ笑いながら黙り込んで、妾の袋をドッコイショと小舟の中から抱え上げたの。
 その時に妾はチョット変に思わないじゃなかったわ。何だか解らないけど、その二人の男の抱え方が、袋の中に生きた人間が居るって事をチャンと知っているとしか思えなかったんですもの。一人は妾の肩の処を……それから、もう一人は腰の処を痛くないようにソーッとネ……だけどこれは大方ヤングが今の間《ま》に手真似か何かで打ち合わせたのかも知れないと思っているうちに、一度階段を降り切った二人の足音は又、別の段々を降り始めて、今度は波の音も何も聞えない、処々に電燈のついた急な階段を二ツばかり降りて行ったの。
 その時にヤングは、もうどこかへ行っていたようよ。……いいえ船の中はシンとしていたけど、いつヤングが消えてしまったのか解らなかったわ……まあそう……出帆前ってそんなに忙がしいものなの……じゃ矢《や》っ張《ぱ》りあんたの云うように、あの軍艦はずっと前から出発の準備をして命令が来るのを待っていたんだわ。ね……そうでしょう……ヤングが出帆の日を知らなかったのは無理もないわ。そうして本当に日本と戦争をする気で出て行ったんだけど、途中で日本が怖くなったから止しちゃったんでしょう。……アラ……どうしてそんなに失笑《ふきだ》すの。
 イイエ、あんたがいくら笑ったってそうに違いないわよ。だってヤングはおしまいまで一度も嘘を吐《つ》いた事なんぞ無かったんですもの。妾がヤングに欺されているように思うのはソレアあんたの嫉妬《やきもち》よ……まあいいから黙ってお酒を飲みながら聞いていらっしゃい。あんたの気もちはよくわかっているんだから。もっとおしまいまで聞いて行くうちには、ヤングが云った事が本当か嘘かわかるから……ね……。
 ……そうしたらね……。
 そうしたら、あとに残って妾を抱えている二人の足音が又一つ、急な段々を降りて行くと、どこか遠い処に黄色い電燈がたった一つ点《とも》っている、暗い、板張りらしい処に来たの。それと一緒に二人の男は、イキナリ妾を固い床の上にドシンと放り出したもんだから妾は思わず声を立てるところだったわ。だけど又それと一緒に、これはどこか近い処に人間が居るからで、妾を荷物と見せかけるために、わざとコンナ乱暴な真似をしたのに違いないと気が付いたの。それでやっと我慢して、放り出されたなりにジッとしていたら、そのうちに誰も居なくなったのでしょう。二人の男は大きな声で話をしいしいユックリユックリと室《へや》を出て行ったの。
「アハハハハハ。もう大丈夫だ。泣こうが喚《わめ》こうが」
「ハハハハハハ。しかしヤングの智恵には驚いちゃったナ。露西亜《ロシア》の娘っ子なんて、コンナに正直なもんたあ思わなかったよ」
「ウーム。こんな素晴らしい思い付きは、彼奴《あいつ》の頭でなくちゃ出て来っこねえ。何しろ革命から後《のち》ってものあ、どこの店でも摺《す》れっ枯《か》らしを追い出して、いいとこのお嬢さんばかりを仕入れたっていうからな……そこを睨んだのがヤングの智恵よ」
「成る程ナア……ところでそのヤングはどこへ行きやがったんだろう」
「おやじん処《とこ》へ談判に行ったんだろう。生きたオモチャをチットばかし持込んでいいかってよ」
「……ウーム。しかしなア……おやじがうまくウンと云えあ良《い》いが……」
「それあ大丈夫よ。それ位の智恵なら俺だって持っている。つまり時間が来るまでは、他の話で釣っといて、艦《ふね》の中を見まわらせねえようにしとくんだ。そうしてイヨイヨ動き出してから談判を始めせえすれあ、十が十までこっちのもんじゃねえか。……まさか引っ返す訳にも行くめえしさ」
「ウーム。ナアルホド。下手を間誤付《まごつ》けあ、良い恥晒《はじさら》しになるってえ訳だな」
「ウン……それにおやじだって万更《まんざら》じゃねえんだかんナ……ヤングはそこを睨んでいるんだよ」
「アハハハハ違《ちげ》えねえ。豪《えれ》えもんだなヤングって奴は……」
「アハハハハハハハ」
「イヒヒヒヒヒヒヒ」
 ……妾こんな話をきいているうちにハッキリと意味はわからないまま、もうスッカリ大丈夫なような気になって、グーグー睡ってしまったのよ。
 ええ……それあ大胆といえば大胆なようなもんよ。だけど、その時の妾はもう大胆にも何にも仕様《しよう》のない位ヘトヘトに疲れていたんですもの。最前からオブラーコで飲んだお酒の酔いと、今まで苦しいのを我慢していた疲労《つかれ》が一時《いちどき》に出ちゃって、いつ軍艦が出帆の笛を吹いたか知らないまんまに睡っていたわ。
 だけど、そうして眼が醒めてからの苦しくて情なかった事……軍艦の器械のゴットンゴットンという響きが身体《からだ》に伝わるたんびに、毛布ごしに床板に押しつけられている背中と、腰骨と、曲ったまんまの膝っ節《ぷし》とが、まるで火が付いたように痛むじゃないの。妾はもう……早くヤングが来てくれればいい。そうしたら水か何か一パイ飲ましてもらわなくちゃ、咽喉《のど》がかわいて死ぬかも知れない。そうしてモット大きな袋に入れてもらわなくちゃ……と、そればっかり考えていたわ。そうして人にわからないように少しずつ寝がえりをしかけていると、不意に頭の上で誰かが口を利き出したので、妾は又ハッとして亀の子のように小さくなってしまったの……それは何でも三四人の男の声で、妾のすぐ傍に突立《つった》って、先刻《さっき》から何か話していたらしいの……。
「まだルスキー島はまわらねえかな」
「ナニもう外海《そとうみ》よ」
「……ワン。ツー。スリー。フォーア……サアテン。フォテン……おやア……一つ足りねえぞこりゃア……フォテン。フィフテン。シックステン……と……あっ。足下《あしもと》に在《あ》りやがった。締めて十七か……ヤレヤレ……」
「……様《さま》と一緒なら天国までも……って連中ばかりだ」
「惜しいもんだなあ……ホントニ……おやじせえウンと云えあ、布哇《ハワイ》へ着くまで散々《さんざっ》ぱら蹴たおせるのになア」
「馬鹿野郎。布哇《ハワイ》クンダリまで持って行けるか。万一見つかって世界中の新聞に出たらどうする」
「ナアニ。頭を切らして候補生の風《ふう》をさせとけあ大丈夫だって、ヤングがそう云ってたじゃねえか」
「駄目だよ。浦塩《うらじお》の一粒|選《え》りを十七人も並べれあ、どんな盲目《めくら》だって看破《みやぶ》っちまわア」
「それにしても惜しいもんだナ。せめて比律賓《ヒリッピン》まででも許してくれるとなア」
「ハハハハまだあんな事を云ってやがる。……そんなに惜しけあ、みんな袋ごと呉れてやるから手前《てめえ》一人で片づけろ。割り前は遣らねえから」
「ブルブル御免だ御免だ」
「ハハハ見やがれ……すけべえ野郎……」
 そんな事を云い合っているうちに一人がマッチを擦《す》って葉巻に火を点《つ》けたようなの。間もなく美《い》い匂いがプンプンして来たから……。
 だけど妾はそのにおいを嗅《か》ぐと一緒に頭の中がシイーンとしちゃったの。身体《からだ》が石みたように固くなって息も吐《つ》けない位になっちゃったの。……だって妾みたようにしてこの軍艦に連れ込まれた者は、妾一人じゃないことが、その時にやっとわかりかけて来たんですもの……。妾のまわりにはまだ、いくつもいくつも支那米の袋が転がっているらしいんですもの……。おまけに、それをどうかしに来たらしい荒くれ男が三四人、平気で冗談を云い合いながら葉巻を吹かしているじゃないの……あんまり恐ろしい、不思議な事なので、妾は、あと先を考える事も何も出来やしなかったわ。ただ眼をまん丸に見開いて鼻っ先に被《かぶ》さっている袋の粗《あら》い目を凝視《みつめ》ながら、両方のお乳を痛いほどギュッと掴んでいたわ……夢じゃないかしらと思って……。
 でも、それは夢じゃなかったの……そうして歯を喰い締めて、一心に耳を澄ましていると、ゴットンゴットンという器械の音の切れ目切れ目に、ドド――ンドド――ンっていう浪《なみ》の音が、どこからか響いて来るじゃないの。……ええ……おおかた外《ほか》の女《ひと》達も妾とおんなじにビックリして小さくなっていたんでしょう。呼吸《いき》をする音も聞えない位シンとしていたようよ。
 そうしたら又その中《うち》に、その葉巻を持っているらしい男が、一としきりスパスパと音を立てて吸い立てながら、こんな事を云い出したの。
「待て待て。片づける前に一ツ宣告をしてやろうじゃねえか。あんまり勿体《もってえ》ねえから」
「バカ……止せったら……一文にもならねえ事を……」
「インニャ。このまま片づけるのも芸のねえ話だかんナ……エヘン」
「止
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