ら間もなく料理番の支那人が持って来てくれた魚汁《ウハー》の美味《おい》しかったこと……その支那人のチーっていうのに聞いてみたら、その時は妾が死んでからちょうど二日目だったそうよ。……妾の袋は、ルスキー島から二海里ばかりの沖へ投げ込まれると間もなく、軍艦と擦れちがったジャンクに拾われたので、その船頭の女房の介抱で息を吹き返したんですってさあ。十七番のナターシャさんも同じジャンクで拾われていたし、パン屋のソニーさんも鯨捕り船だったかに拾われて来たのを、白軍の巡邏船《じゅんらせん》が見付け出して警察に引き渡したんですって。だけど、みんな水をドッサリ飲んでいたんで駄目だったんですとさあ。そのほかの袋は十日ばかし経ってから、タッタ二個だけ、外海《そとうみ》の岸に流れ付いたそうよ。妾怖いから見に行かなかったけど……ホントに可哀そうでしようがないの……。

 妾……この話をするのはあんたが初めてよ。いいえ……誰も知らないの……みんな死んでいるから……。
 それあ浦塩《ここ》ではかなり評判になっているらしいのよ。……ええ……あんたが知らないのは無理もないわよ。あんたはまだ浦塩《ここ》に来ていなかったんですからね。おまけに警察でもこの家《うち》でも、まだ秘密にしているから、新聞にも何も書いてないそうよ。おおかた亜米利加《アメリカ》を怖がっているのでしょう。あの軍艦がしたらしい事は、みんな感づいているんですからね。
 ええ……それあ何遍も何遍も訊《き》かれたのよ。一体どうしてこんな眼に会わされたのかってね。妾が気が付いてから後《のち》の一週間ばかりというもの、警察の人や、うちの主人や、そのほかにも役人らしいエラそうな人が何人も何人も、毎日のように妾の枕元に遣って来ちゃ、威《おどか》したり、賺《すか》したりしながら、ずいぶん執拗《しつこ》く事情《わけ》を尋ねたのよ。……おしまいには先方《むこう》から色んな事を話して聞かせてね……あのヤングっていう士官はトテモ悪い奴で、今年の夏に浦塩《うらじお》に着いた時に、軍艦の荷物が税関にかからないのをいい事にして、阿片《あへん》をドッサリ浦塩《うらじお》に持ち込んで、方々に売り付けてお金を儲けた事がチャンとわかってるんだ……だけども遣り方がナカナカ上手でハッキリした証拠が上らないために、どうすることも出来ないでいたんだ。……そうしたらヤングの畜生めスッカリ浦塩《うらじお》の警察を舐《な》めてしまったらしく、今度は配下《てした》の水兵にお金を遣るかどうかして、めいめいの色女を十何人も軍艦に担《かつ》ぎ込んで、上海《シャンハイ》かどこかの市場《ころしば》に売りに行こうとしやがった。……けれども軍艦が沖へ出ると、それが上官に見つかるかどうかしたもんだから、一つ残らず海の中へ放り込ましてしまったのが、やっぱりあのヤングって奴なんだ。……しかもその中で生き残っているのはお前一人なんだからトテモ大切な証人なのだ。俺達は、お前の仲間十何人の讐《かた》きを取ってやろうと思っているのだから、早く気をシッカリさして返事をしてくれなければ困る。御褒美《ごほうび》の金《かね》はいくらでも遣るから本当の事を云ってくれ……一体お前は何と云ってヤングに欺されたのか。どうして船の中に連れ込まれたのか。そうしてドンナ間違いから海の中に放り込まれるような事になったのか……ナンテいろんなトンチンカンな事を真剣になって訊《き》くの……。
 だけど妾どうしても、それに返事する事が出来なかったのよ。……お前さんたちが云っているのはみんな嘘だ。ヤングはそんなに悪い人間じゃない。悪い奴はあの船の司令官一人だって云ってやろうと思っても、どうしてもその訳を話す事が出来なかったの。……何故っていうと、妾、正気に帰ってからちょうど一週間ばかりというもの、口を利くのが怖くて怖くてしようがなかったんですもの。どうしてもその時の恐ろしさが忘れられなくって「ハイ」とか「イイエ」とかいう短かい返事をするのさえ怖くて怖くてたまらない気がしてね。それを無理に口を利こうとすると、歯の根がガタガタ云い出して、すぐに吐きそうになって来るんですもの……仕方がないから丸で唖者《おし》みたようになって、眼ばかりパチパチさせていたら、警察の人達もとうとう諦らめてしまって、来なくなったようよ。
 ……だけども、そうして妾が一人ボッチになってから、ウトウトしようとすると、すぐに、あの時の気持が夢になって見えて来て、寝床の中で汗ビッショリになりながら、一生懸命に藻掻《もが》かせられるの。夢うつつに敷布を噛み破ったり湯タンポを蹴り落したりしてね。その恐ろしさったらなかったわよ。そうして、そんな夢のおしまいがけにはキットあのヤングの悲しい、静かな声が、どこからともなくハッキリと聞えて来て、妾をサメザメと
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