ほかのは大抵卒業しちゃったのよ。……それも初めのうちは、妾がヤングからいじめられる役で、首をもうすこしで死ぬとこまで絞《し》められたり、縛って宙釣りにされたり、髪毛《かみのけ》だけで吊るされたりして、とても我慢出来ない位、苦しかったり痛かったりしたのよ。だけどそのうちにだんだん慣れて来たら、その痛いのや苦しいのが眼のまわるほどよくなって来てね……妾があんまり嬉しそうにして涙をポロポロ流したりするもんだから、おしまいにはヤングの方が羨ましがって、いつも持っている小さな鞭《むち》を妾に持たして、それで自分の背中を思い切り打《ぶ》ってくれって云い出した位よ。
 ええ……妾思い切り打ってやったわ。ヤングなら背中に鞭の痕《きず》が付いていても誰も気付かないでしょうし、妾も自分でいじめられる気持ちよさを知っていたんですからね……イイエ、音なんかいくら聞こえたって大丈夫よ。妾ヤングから教《おそ》わった通りに呑気《のんき》そうに流行歌《はやりうた》を唄いながら、その調子に合わせて打《ぶ》っていたから、外から聞いたって何かほかのものをたたいているとしか思えなかった筈よ。……でも、そうして寝台の上に長くなっているヤングの脂切《あぶらぎ》った大きな背中を、小さな革《かわ》の鞭で、力一パイにたたいている間の気持ちのよかったこと……打てば打つほどヤングが可愛いくなって来てね……そうしてもう、ヤングと一緒に亜米利加《アメリカ》へ行ったら、そんな遊びが本式に大ピラで出来ると思うと、楽しみで楽しみでたまらなくなっちゃったの。だから……妾は毎晩そんな遊びをする時間をすこしずつ裂《さ》いて、ヤングを先生にして一生懸命に亜米利加の言葉を勉強し続けたのよ。
 妾は言葉を覚えるのが名人なんですってさあ。ヤングがビックリしていた位よ。ヤングとこんな話が出来るようになる迄でには一と月とかからなかったし、水兵さん達と悪態のつきっこをする位の事なら、初めっから訳なかったわ。おしまいにはヤングがよくポケットに入れて持って来る英字新聞《アングリウスクユガゼド》が、すこうしずつ読めるようになったから豪《えら》いでしょう。自分の国の字だと聖書もロクに読めないのによ。ホホホホホホホ。だって妾の両親はトテモ貧乏で、妾を学校に遣《や》る事が出来なかったんですもの……お化粧の道具なんかも、両親から買ってもらった事は一度も無かったのよ。だけどこの時ばかりは学者の奥さんになるのだからと思って、ずっと前から欲しくてたまらなかった型の小さい、上品なのを別に買って、バスケットの底に仕舞《しま》っておいたわ。ええ。それあ嬉しかったわよ。だってどうせ両親に売り飛ばされて、こんな酒場《レストラン》の踊り子になっている身の上ですもの……おまけに生れて初めて妾を可愛がってくれて、色んな楽しみを教えてくれたのが、そのヤングなんですもの……その頃の妾は今みたいな、オシャベリの女じゃなかってよ。どんな男を見ても怖ろしくて気味がわるくて、思うように口も利けない中に、たった一人そのヤングだけが怖くなかったんですもの……アラ……御免なさいね。泪《なみだ》なんか出して……妾……男の方の前で、こんな事を云って泣くのは今夜が初めてよ。ネ……笑わないでね。

 そうしたら……そうしたらね、ちょうどあと月《げつ》だから十月の末の事よ。ヤングがいつになく悄気《しょげ》た顔をして這入《はい》って来て、この室《へや》で妾と差し向いになると、何杯も何杯もお酒を飲んだあげくにショボショボした眼付きをしながら、こんな事を云い出したの……。
「可愛い可愛いワーニャさん。私はいよいよあなたとお別れしなければならぬ時が来ました。あなたを亜米利加へ連れて行く事も思い切らなければならぬ時が来ました。私は明日《あす》の朝早く、船と一緒に浦塩《うらじお》を引き上げて布哇《ハワイ》の方へ行かなければなりませぬ。そうして日本と戦争を始めなければなりませぬ。そうなったら私は戦死をするかも知れないし、あなたを連れて行く訳にも行かなくなりました。昨夜不意打ちに本国からの秘密の命令が来たので、どうする事も出来ないのです。……しかしもしも戦争が済むまで私が死なないでいたらキット貴女《あなた》を連れに来ます。ですから何卒《どうぞ》今度ばかりは諦めて下さい」
 ……って……そう云っているうちに、ポケットからお金をドッサリ詰めた革袋を出して、妾の手に握らせたの。
 妾、その革袋を床の上にたたき付けて泣いちゃったわ。
「そんな事は嘘だ」
 って云ってね。それあ日本が亜米利加と戦争を初めそうだっていう事は、ズット前から聞いているにはいたけれども、ヤングの話はあんまりダシヌケ過ぎて、どうしても本当とは思えなかったんですもの。だから、
「あんたは妾を捨てて行こうとするのだ。何でもいいか
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