者也。仮令《たとい》血統断絶致すとも苦しからざる事。
一、敵手《あいて》の中の主立《おもだち》たる一人は黒田藩の指南番浅川一柳斎と名乗り、五十前後の長身にて、骨柄逞ましき武士なること。
一、後々《あとあと》の事は母方の縁辺により、御老中、久世広周《くぜひろちか》殿に御願申上べき事 以上。
[#地から4字上げ]友川三郎兵衛矩兼血判
[#地から2字上げ]嫡男 長一郎矩道代筆印
[#地から2字上げ]次男 三次郎矩行 印
[#天から2字下げ]文久二年五月十四日
又、別紙奉書の※[#「田/(田+田)」、第4水準2−81−34]紙《らいし》には美事なお家様の文字が黒々と認《したた》めてあった。
別紙遺言状相添え、病弱の兄に代り、次男友川三次郎矩行、仇討執心の趣、殊勝の事。但、御用繁多の折柄に付《つき》、広周一存を以て諸国手形相添え差許《さしゆるす》者也《ものなり》。尚本懐の上は父三郎兵衛の名跡《みょうぜき》相違なかるべき事、広周|可含置《ふくみおくべき》者也《ものなり》
[#天から2字下げ]文久|壬戌《じんじゅつ》二年六月二日 広周 書判
平馬の顔から血の色が消えた。何もかも解かったような気がすると同時に、又も、眼の前が真暗になって来たので、吾れ知らず二通の手紙を握り締めた。自分の恩師を不倶戴天の仇《あだ》と狙う眼の前の不思議な女性を睨み詰めた。
その時に若衆姿の女性が、やっと顔を上げた。平馬の凄じい血相を見上げると、又も新しい涙を流しながら唇を震わした。
「……御覧の……通りで御座います。兄も……弟も労咳《ろうがい》で臥せっておりまする中にタッタ一人の妾《わたくし》が……聊《いささ》か小太刀の心得が御座いますのを……よすがに致しまして、偽りの願書を差出しました。……そうして……そうして、お許しを受けますと……御免状の通り男の姿に変りまして……首尾よく箱根のお関所を越えました。それから他人《ひと》様に疑われませぬように、色々と姿を変えまして、どうがな致してこの思いを、貴方《あなた》様にだけ打ち明けたいと、心を砕きました甲斐もなく、関所破りの疑いをかけたらしい腕利きの老人に、どこからともなく附き纏われまして生きた空もなく逐《お》い廻わされました時の、怖ろしゅう御座いましたこと……それから四国路まで狭迷《さまよ》いまして、千辛万苦致しました末、ようようの思いで当地に立越えてみますれば……狙う讐仇《かたき》の一柳斎は……貴方様の御師匠さま……」
平馬をマトモに見上げた顔から、涙が止め度もなく流れ落ちた。その身内の戦《おのの》かしよう……肩の波打たせようは、どう見ても真実こめた女性の、思い迫った姿に見えた。
平馬は地獄に落ちて行く亡者のような気持になった。乾いた両眼をカッと見開いて、遠い遠い涯てしもない空間を凝視していた。
その眼の前に泣き濡れた、白い顔が迫って来た。噎《む》せかえる女性の芳香《かおり》と一所に……。
「……それで……それで……妾は……貴方様のお手に掛かりに……まいりました」
ハッとした平馬は二尺ばかり飛び退《の》いた。
「……ナ……何と……」
「……妾は、父の怨みを棄てました、不孝な女で御座います。小田原の松原からこのかた、あ……貴方様の事ばっかり……思い詰めまして……」
「……エエッ……」
「……お……お慕い申して参りました。討たれぬ……討っては成りませぬ仇《かたき》とは存じながら……ここまで参いりました。せめて貴方様の……お手にかかりたさに……一と思いの……御成敗が受けたさに……受けとうて……」
と云ううちにキッと唇を噛んだ若侍の姿がスルスルと後《あと》へ下がった。……それは云い知れぬ思いに燃え立つ妖火のような頬の輝やき、眼の光り……と見るうちに懐中《ふところ》の匕首《あいくち》、抜く手も見せず、平馬の喉元へ突きかかった。
「……アッ。心得違い……めさるなッ」
危うく右へ飛び退《の》いた平馬は、まだ居住居《いずまい》を崩さずに両手を膝に置いていた。
「……乱心……乱心召されたかッ……讐仇《かたき》は讐仇《かたき》……身共は身共……」
と助けてやりたい一心で大喝した。
一方に空を突いた若侍姿はモウ前髪を振り乱していた。とても敵《かな》わぬと観念したらしく、平馬の大喝の下《もと》に息を切らしながら眼を閉じたが、又も思い切って見開くと、火のような瞳を閃めかした。
「……ヒ……卑怯者ッ。その讐仇《かたき》を討つのに……邪魔に……邪魔になるのは貴方一人……」
「……エエッ……さてはおのれ……」
「お覚悟ッ……」
という必死の叫びが、絹を裂くように庭先に流れた。白い光りが一直線に平馬の胸元へ飛んだが、床の間の脇差へかかった平馬の手の方が早かった。相手が立ち上りかけた肩先を斬り下げていた。
その切先《きっさき》に身を投げかけるようにして来た相手は、そのまま懐剣を取落して仰《の》けぞった。両手の指をシッカリと組み合わせたまま、あおのけに倒おれると、膝頭をジリジリと引き縮めた。涙の浮かんだ眼で平馬を見上げながらニッコリと笑った。
「……本望……本望で……御座います。平馬様……」
そう云ううちに、袈裟《けさ》がけに斬り放された生平《きびら》の襟元がパラリと開いた。赤い雲から覗いた満月のような乳房が、ブルブルとおののきながら現われた。
「……すみませぬ……済みま……せぬ……。今までのことは、何もかも……何もかも……偽り……まことは妾《わたくし》は……女……女役者……」
と云いさして平馬の方向《ほう》へガックリと顔を傾けた……が……しかし、それは苦痛のためらしかった。そのまま眼を閉じてタップリと血を吐いた。……と見るうちに下唇を深く噛んで、白い小さな腮《あご》を、ヒクリヒクリとシャクリ上げはじめた。
平馬は血刀を掲《ひっさ》げたまま茫然となっていた。
「……ええ。お頼み申します。お取次のお方はおいでになりませぬか。手前は見付の佐五郎と申す者で御座います。どなたかおいでになりませぬか。お頼み申しますお頼み申しますお頼み申します……」
という性急な案内の声を他所《よそ》事のように聞いていた。
一柳斎は伸び伸びと肩を上げてうなずいた。
「いや。無事にお届が相済んで祝着この上もない……まず一献《いっこん》……」
贋《に》せ侍斬りに就いて大目附へ出頭した紋服姿の石月平馬と、地味な木綿縞《もめんじま》に町の低い役袴《やくばかま》を穿いた三五屋、佐五郎老人が、帰り道に招かれて夕食の饗応《もてなし》を受けていた。大盆を傾けた一柳斎は早くも雄弁になっていた。
「……のう……一存の取計らいとはいう条、仮初《かりそめ》にも老中の許し状を所持致しておる人間じゃ。無下《むげ》に斬棄てたとあっては、無事に済む沙汰ではないがのう……お江戸の威光も地に墜ちかけている今日なればこそじゃ。それに又、佐五郎老体の言葉添えが、最初から立派であったと云うからのう。番頭《ばんがしら》の筆頭が感心して話しおったわい」
「どう仕りまして……無調法ばかり……」
「いや。なかなかもって……お関所破りの贋《に》せ若衆とあれば天下の御為に容易ならぬ曲者《くせもの》と存じ、当藩の役柄の者に付き纏うところを、ここまで逐《お》い詰めて参いったとあれば、大目附でも言句《げんく》はない筈じゃからのう……殊更に御老中の久世広周《くぜひろちか》殿も、お役御免の折柄ではあるし、迂濶な咎め立てをしようものなら却って無調法な仇討《あだうち》免状が表沙汰になろうやら知れぬ。思えば平馬殿は都合のよい『生き胴』に取り当ったものじゃのう。ハッハッハッ……」
酌をしていた奥方が、心から感心したように平馬の顔を見てうなずいた。
「……あれからこの四五日と申しますもの、御城下では平馬殿のお噂ばっかり……」
「うむうむ。そうあろうとも……イヤ。天晴《あっぱれ》で御座ったぞ平馬殿。あの時に、どう処置をされるおつもりかと聞いたのはここの事じゃったが……ハッハッ。よう見定めが附いたのう。佐五郎殿。そうは思われぬか……」
「御意《ぎょい》に御座います。先生様の御|丹精《たんせい》といい、その場を立たせぬ御決断とお手の中《うち》……拝見致しながら夢のように存じました」
「うむうむ。然るにじゃ。あの女の正体を平馬殿の物語りの中から見破って来た、佐五郎老体の眼鏡の高さも亦、中々もって尋常でないわい。実はその手柄話を聞きたいが精神《こころ》で、平馬殿に申し含めて、斯様《かよう》に引止めさせた訳じゃが……門弟共の心掛にもなるでのう」
「身に余りまするお言葉、勿体のう存じまする。幅広う申上げまする面目も御座りませぬが、初めて石月様のお物語を承っておりますうちにアラカタ五つの不審が起りました」
「成る程……その不審というのは……」
「まず何よりも先に不審に存じましたのは、仇討《あだうち》に参いる程の血気の若侍が、匂い袋を持っていたというお話で御座いました。まことに似合わしからぬお話で……これは、もしや女人《にょにん》の肌の香《か》をまぎらわせるためではないかと疑いながら承わっておりますると案の定、それから後《のち》の石月様の心遣いに、女ならでは行き届きかねる節々が見えまする……これが二つ……」
「尤も千万……それから……」
「三つにはその足の早さ……四つには、その並外れた金遣い、……それから五つにはその眼を驚かす姿の変りようで御座りまする」
「いかにものう……恐ろしい理詰めじゃわい」
「ザッと右のような次第で、つまるところこれは稀代の女白浪《おんなしらなみ》ではあるまいか。さもなければお話のような気転、立働らきが出来る筈はないと存じ寄りましたのが初まりで……」
「うむうむ……」
「年寄の冷水とは存じましたが、御覧の通り最早《もはや》六十の峠を越えました下り坂の私。空車《からぐるま》を引いている折柄で御座います、戻り駄賃に一世一代の大物を引いて見ようか……と存じますと一気に釣り出された仕事で御座いましたが、タッタ一足の事で石月様に先手を打たれまして……ヘヘヘ。面目次第も御座いませぬ」
「イヤイヤ。それにしても流石《さすが》は老練じゃ。並々の者に足跡を見せる女ではないわい」
「……ところでお言葉はお言葉と致しまして、ここに一つの不審が御座りまするが如何で御座りましょうか。御無礼とは存じますれど……」
「何の何の。何の遠慮が要ろう。何なりと存分に問うて見られい」
「ヘヘイ。有難う存じまする。それではお伺い申上げまするが、先生様が、石月様のお話から、仇討《あだうち》免状の正体カラクリを、お覚《さと》りになりました次第と申しまするは……」
「アハアハ。何事かと思うたればその事か。それなれば何でもない。他愛もない事じゃ」
「……と……仰せられまするは……」
「うむ。追ってお尋ねを受ける事と思うが、実は身共も少々あの女に掛り合いがあっての」
「ヘエッ。これは亦、思いも寄りませぬ」
「ほかでもない。忘れもせぬ昨年の十月の末の事じゃ。久方振りに殿の御用で江戸表へ参いっておる中《うち》に、あの願書の当の本人、友川矩行という若侍から父の仇敵《かたき》と名乗り掛けられてのう……」
「ヘエッ。いよいよ以て不思議なお話……」
「おおさ。しかも馬場先の晴れの場所で、助太刀《すけだち》らしい武士が二人引添うておったが聊《いささ》か肝を奪われたわい。面目ない話じゃが聊か身に覚えのない事じゃまで……」
「成る程……御尤《ごもっと》も様で……」
「しかし迂濶に相手はならぬ。何か仔細がある事と思うたけに咄嗟《とっさ》の間《ま》に身を引きながら、如何にも身共は黒田藩の浅川一柳斎に相違ないが、何か拙者を讐仇《かたき》と呼ばれる仔細が御座るか。然るべき仇討《あだうち》の免状でも持っておいでるかと問うてみたればそれは無い。在るには在ったが、浅草観世音の境内で懐中物と一所に掏《す》られてしもうたと云うのじゃ」
「ハハア。どうやら様子がわかりまする」
「うむうむ。そこで……然らば、お気の毒ながら仇呼《かたきよ》ばわりは御免下されい。第一毛頭覚え
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