なく重荷を下したような気がした。
「おうおう待ちかねたぞ……ウムッ。これは熱い。……チト熱過ぎたぞ……ハハ……」
「御免なされませ……ホホ……」
「ところで今の主人はお前の父《とと》さんか」
「いいえ。叔父さんで御座います。どうぞ御ゆっくりと申して行きました」
「何……もう出て行ったのか」
「ハイ。早ようて二三日……遅うなれば一《ひ》と月ぐらいかかると云うて出て行きました」
 平馬は又も面喰らわせられた。
「ウーム。それは容易ならぬ……タッタ今の間《ま》に支度してか」
「ハイ。サゴヤ佐五郎は旅支度と早足なら誰にも負けぬと平生《いつも》から自慢にしております」
「ウーム……」

 しかし中国路に這入った平馬は又も、若侍の事をキレイに忘れていた。それというのも見付の宿《しゅく》以来、宿屋の御馳走がパッタリと中絶したせいでもあったろう。序《ついで》にサゴヤ佐五郎の事も忘れてしまって文字通り帰心矢の如く福岡に着いた。着くと直ぐに藩公へお眼通りして使命を果し、カタの如く面目を施した。
 ところで平馬は早くから両親をなくした孤児《みなしご》同様の身の上であった。百石取の安|馬廻《うままわ》りの家を相続しているにはいたが、お納戸《なんど》向きのお使番《つかいばん》という小忙《こぜわ》しい役目に逐《お》われて、道中ばかりしていたので、桝小屋《ますごや》の小さな屋敷も金作という知行所《ちぎょうしょ》出の若党と、その母親の後家婆《ごけばばあ》に任していた。ところが今度の帰国を幸い、縁辺の話を決定《とりき》めたいという親類の意見から、暫く役目のお預りを願って、その空屋《あきや》同然の古屋敷に落付く事になると、賑やかな霞が関のお局《つぼね》や、気散《きさん》じな旅の空とは打って変った淋しさ不自由さが、今更のように身に泌《し》み泌《じ》みとして来た。さながらに井戸の中へ落込んだような長閑《のどか》な春の日が涯てしもなく続き初めたので、流石《さすが》に無頓着の平馬も少々閉口したらしい。或る日のこと……思い出したように道具を荷《かつ》いで因幡町《いなばちょう》の恩師、浅川一柳斎の道場へ出かけた。
 一柳斎は、むろん大喜びで久方振りの愛弟子《まなでし》に稽古を付けてくれたが、稽古が済むと一柳斎が、
「ホホオ。これは面白い。稽古が済んだら残っておりやれ。チト話があるでな」
 と云う中《うち》に何かしらニコニコしながら道具を解いた。手酷しい稽古を附けてもらった平馬は息を切らして平伏した。これも大喜びで居残って一柳斎の晩酌のお相手をした。
 一柳斎は上々の機嫌で胡麻塩《ごましお》の総髪を撫で上げた。お合いをした平馬も真赤になっていた。
「コレ。平馬殿……手が上がったのう」
「ハッ。どう仕りまして、暫くお稽古を離れますと、もう息が切れまして……ハヤ……」
「いやいや。確かに竹刀《しない》離れがして来たぞ。のう平馬殿……お手前はこの中《じゅう》、どこかで人を斬られはせんじゃったか。イヤサ、真剣の立会《であ》いをされたであろう」
 平馬は無言のまま青くなった。恩師の前に出ると小児《こども》のようにビクビクする彼であった。
「ハハハ。図星であろう。間合いと呼吸がスックリ違うておるけにのう。隠いても詮ない事じゃ。その手柄話を聴かして下されい。ここまでの事じゃから差し置かずにのう」
 いつの間にか両手を支《つか》えていた平馬は、やっと血色を取返して微笑した。叱られるのではない事がわかるとホッと安堵して盆《さかずき》を受けた。赤面しいしいポツポツと話出した。
 ところが、そうした平馬の武骨な話しぶりを聞いている中《うち》に一柳斎の顔色が何となく曇って来た。しまいには燗《かん》が冷《さ》めても手もつかず、奥方が酌に来ても眼で追い払いながら、しきりに腕を組み初めた。そうして平馬が恐る恐る話を終ると同時に、如何にも思い迷ったらしい深い溜息を一つした。
「ふううむ。意外な話を聞くものじゃ」
「ハッ。私も実はこの不思議が解けずにおりまする。万一、私の不念《ぶねん》ではなかったかと心得まして、まだ誰にも明かさずにおりまするが……」
「おおさ。話いたらお手前の不覚になるところであった」
「……ハッ……」
 何かしらカーッと頭に上って来るものを感じた平馬は又も両手を畳に支《つ》いた。それを見ると一柳斎は急に顔色を柔らげて盃をさした。
「アハハ……イヤ叱るのではないがのう。つまるところお手前はまだ若いし、拙者のこれまでの指南にも大きな手抜かりがあった事になる」
「いや決して……万事、私の不覚……」
「ハハ。まあ急《せ》かずと聞かれいと云うに……こう云えば最早《もはや》お解かりじゃろうが、武辺の嗜《たしな》みというものは、ただ弓矢、太刀筋ばかりに限ったものではないけにのう……」
「……ハ……ハイ……」
「人間、人情の取々様々《とりどりさまざま》、世間風俗の移り変りまでも、及ぶ限り心得ているのが又、大きな武辺のたしなみの一つじゃ。それが正直一遍、忠義一途に世の中を貫いて行く武士のまことの心がけじゃまで……さもないと不忠不義の輩《やから》に欺されて一心、国家を過《あやま》つような事になる。……もっともお手前の今度の過失《あやまち》は、ほんの仮初《かりそめ》の粗忽《そこつ》ぐらいのものじゃが、それでもお手前のためには何よりの薬じゃったぞ」
「……と仰せられますると……」
「まま。待たれい。それから先はわざと明かすまい。その中《うち》に解かる折もあろうけに……とにも角にもその見付の宿の主人《あるじ》サゴヤ佐五郎とかいう老人は中々の心掛の者じゃ。年の功ばかりではない。仇討免状の事を貴殿に尋ねたところなぞは正《まさ》に、鬼神を驚かす眼識じゃわい」
「……と……仰せられますると……」
 若い平馬の胸が口惜しさで一パイになって来た。それを色に出すまいとして、思わず唇を噛んだ。
「アハハハ。まあそう急がずと考えて見さっしゃれ。アッサリ云うてはお手前の修行にならぬ。……もっともここの修行が出来上れば当流の皆伝を取らするがのう……」
「……エッ。あの……皆伝を……」
「ハハハ。今の門下で皆伝を許いた者はまだ一人もない。その仔細《わけ》が解かったかの……」
 平馬は締木《しめぎ》にかけられたように固くなってしまった。まだ何が何やらわからない慚愧《ざんき》、後悔の冷汗が全身に流るるのを、どうする事も出来ないままうなだれた。
「……平馬殿……」
「……ハッ……」
「貴殿の御縁辺の話は、まだ決定《きま》っておらぬげなが、程よいお話でも御座るかの……」
 平馬は忽ち別の意味で真赤になった。……自分の周囲に縁談が殺到している……「娘一人に婿八人」とは正反対の目に会わされている……という事実を、今更のようにハッキリと思い出させられたからであった。
「うむうむ。それならば尚更のことじゃ。念のために承っておくがのう。その今の話の美くしい若侍とか、又は見付の宿の奥方姿の女とかいうものが、万一、お手前を訪ねて来たとしたら……」
「エッ。尋ねて参りまするか……ここまで……」
「おおさ。随分、来まいものでもない仔細がある。ところで万が一にもそのような人物が、貴殿を便《たよ》って来たとしたら、どう処置をさっしゃるおつもりか貴殿は……」
「……サア……その時は……とりあえず以前の馳走《ちそう》の礼を述べまして……」
「アッハッハッハッハッハッ……」
 一柳斎は後手《うしろで》を突《つ》いて伸び伸びと大笑した。
「アハアハ。いやそれでよいそれでよい。そこが貴殿の潔白なところじゃ。人間としては免許皆伝じゃ」
 平馬は眼をパチパチさせて恩師の上機嫌な顔を見守った。何か知ら物足らぬような、馬鹿にされているような気持ちで……。しかし一柳斎はなおも天井を仰いで哄笑した。
「アハハハ……これは身どもが不念《ぶねん》じゃった。貴殿の行末を思う余りに、要らざる事を尋ねた。『予《あらかじ》め掻《か》いて痒《かゆ》きを待つ』じゃった。アハアハアハ。コレコレ。酒を持て酒を……サア平馬殿|一献《いっこん》重ねられい。不審顔をせずとも追ってわかる。貴殿ならば大丈夫じゃ。万が一にも不覚はあるまい」

 平馬は南向の縁側へ机を持ち出して黒田家家譜を写していた。一柳斎から「世間|識《し》らず」扱いにされた言葉の端々《はしばし》が気にかかって、何となく稽古を怠けていたのであった。
 その鼻の先の沓脱《くつぬぎ》石へ、鍬《くわ》を荷いだ若党の金作がポカンとした顔付で手を突いた。
「……あの……申上げます」
「何じゃ金作……草取りか……」
「ヘエ……その……御門前に山笠《やま》人形のような若い衆が……参いりました」
「……何……人形のような若衆……」
「ヘエ……その……刀を挿《さ》いて見えました」
「……お名前は……」
「……ヘエ……その……友川……何とか……」
 平馬は無言のまま筆を置いて立上った。今までの不思議さと不安さの全部を、一時に胸の中《うち》でドキンドキンと蘇らせながら……。
 ところが玄関に出てみると最初に見かけた通りの大前髪《おおまえがみ》に水色襟、紺生平《こんきびら》に白|小倉袴《こくらばかま》、細身の大小の柄《つか》を内輪《うちわ》に引寄せた若侍が、人形のようにスッキリと立っていた。すこし日に焼けた横頬を朝の光に晒《さら》しながらニッコリとお辞儀をしたので、こちらも思わず顔を赤めて礼を返さない訳に行かなかった。
 ……これ程に清らかな、人品《じんぴん》のいい若侍をどうして疑う気になったのであろう……。
 と自分の心を疑う気持ちにさえなった。
「……これは又……どうして……」
「お久しゅう御座います」
 若侍は美しく耳まで石竹色《せきちくいろ》に染めて眼を輝やかした。
「イヤ。まずまずお話はあとから……こちらへ上り下されい。手前一人で御座る。遠慮は御無用。コレコレ金作金作。お洗足《すすぎ》を上げぬか……サアサア穢苦《むさくる》しい処では御座るが……」
 平馬は吾にもあらず歓待《ほと》めいた。
 若侍は折目正しく座敷に通って、一別以来の会釈をした。平馬も亦、今更のように赤面しいしい小田原と見付の宿の事を挨拶した。
「いや……実はその……あの時に折角の御厚情を、菅《すげ》なく振切って参いったので、その御返報かと心得まして、存分に讐仇《かたき》を討たれて差上げた次第で御座ったが……ハハハ……」
 平馬は早くも打ち解けて笑った。
 しかし若侍は笑わなかった。そのまま眩《ま》ぶしい縁側の植え込みに眼を遣ったが、その眼には涙を一パイに溜めている様子であった。
「……して御本懐をお遂げになりましたか」
「はい。それが……あの……」
 と云ううちに若侍の眼から涙がハラハラとあふれ落ちた……と思う間もなく畳の上に、両袖を重ねて突伏すと、声を忍んで咽《むせ》び泣き初めた。……そのスンナリとした襟筋……柔らかい背中の丸味……腰のあたりの膨らみ……。
 平馬は愕然となった。
 ……女だ……疑いもない女だ……。
 と気付きながら何も彼《か》も忘れて唖然となった。
 ……最初からどうして気付かなかったのであろう……恩師一柳斎の言葉はこの事であったか。あの時に、どう処置を執《と》るかと尋ねられたが……これは又、何としたものであろう……。
 と心の中《うち》で狼狽した。顔を撫でまわして茫然となった。
 その平馬の前に白い手が動いて二通の手紙様の物をスルスルと差出した。そのまま、拝むように一礼すると、又も咽泣《むせびなき》の声が改まった。
 平馬は何かしら胸を時《とき》めかせながら受取った。押し頂きながら上の一通を開いてみた。
 ボロボロの唐紙《とうし》半切《はんせつ》に見事な筆跡で、薄墨の走り書きがしてあった。
[#天から4字下げ]遺言の事
 一、父は不忍《しのばず》の某酒亭にて黒田藩の武士と時勢の事に就《つき》口論の上、多勢に一人にて重手《おもで》負い、無念ながら切腹し相果《あいは》つる者也。
 一、父の子孫たる者は徳川の御為《おんため》、必ずこの仇《あだ》を討果《うちはた》すべき
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