いた。
「……まこと……主人の申付けか……」
「……あの。貴方様が只今お湯に召します中《うち》に、お若いお武家様が表に御立寄りなされまして……」
「……何……若い侍が……」
「ハイ。あのう……お眼に掛って御挨拶致したい筋合いなれど、先を急ぎまする故、失礼致しまする。万事粗略のないようにと仰せられまして、私共にまで御心付けを……」
「……ヘヘイ。只今はどうも……飛んだ失礼を……真平《まっぴら》、御免下されまして……」
五十ばかりの亭主と見える男が、走って来て平馬の足元に額を擦り付けた。
「……また只今は御多分の御茶代を……まことに行き届きませいで……早や……」
平馬は突立ったまま途方に暮れた。使命を帯びている身の油断はならぬ……が、志の趣意は、わかり切っている。最前の若者が謝礼心《れいごころ》でしたに相違ないことを無下《むげ》に退《しりぞ》けるのも仰々《ぎょうぎょう》しい……といってこれは亦《また》、何という念入りな計らい……年に似合わぬ不思議な気転……と思ううちに又しても異妖な前髪姿が、眼の前にチラ付いて来た。
「……どうぞ、ごゆるりと……ヘイ。まことに、むさくるしい処で御座いますが……」
と云ううちに亭主と女中が退《さが》って行った。
平馬は引込みが付かなくなった。そのまま床の前の緞子《どんす》の座布団にドッカと腰を下して、腕を組んでいると今度は、美しく身化粧《みじまい》した高島田の娘が、銚子《ちょうし》を捧げて這入《はい》って来た。
「……入《い》らせられませ。あの土地の品で、お口当りが如何と存じますが……お一つ……」
平馬は腕を組んだまま眼をパチパチさせた。
「お前は……女中か……」
「ハイ……あの当家の娘で御座います」
「ふうむ。娘か……」
「……ハイ。あの……お一つ……」
平馬は首をひねりひねり二三|献《こん》干《ほ》した。上酒と見えていつの間にか陶然となった。
……ハテ。主命というても今度は、お部屋向きの甘たるい事ばかりじゃ。附け狙われるような筋合いは一つもないが……やはり最前の若侍が真実からの礼心であろう……。
なぞと考えまわす中《うち》に、元来屈託のない平馬は、いよいよ気安くなって五六本を傾けた。鯉《こい》の洗い、木の芽|田楽《でんがく》なぞも珍らしかった。
沈み込む程ふっくりした夜具に潜り込む時、彼は又ちょっと考えた。
……これ程の心付けをするとあれば余程の路用を持っているに違いない。友川という旗元は、あまり聴かぬようじゃがハテ。何石取であろう……。
と思ううちに又も、松原を背景にした若侍の面影が天井の火影《ほかげ》に浮かみ現われた。……水色の襟と、紺色の着物と、桐油合羽の黄色を襲《かさ》ね合わせた白い襟筋のなまめかしかったこと……。
しかし、それも僅かの間《ま》のまぼろしであった。平馬はそのまま寝返りもせずに鼾《いびき》をかき初めた。
箱根を越えるうちに平馬は、若侍の事をサッパリと忘れていた。
駿府にはわざと泊らず、海近い焼津から一気に大井川を越えて、茶摘歌《ちゃつみうた》と揚雲雀《あげひばり》の山道を見付《みつけ》の宿まで来ると高い杉森の上に三日月が出たので、通筋《とおりすじ》の鳥居前、三五屋というのに草鞋《わらじ》を解いた。近くに何やら喧嘩があるという横路地の立話を、湯の中で聞きながら旅らしい気持ちに浸っていたが、その中《うち》に気が付くと一人の女中が板の間に這入って来て、今まで着ていた木綿の浴衣を、絹らしいのと取換えている。……ハテ。何をするのか……と見ているとその女中が三指を突いて平馬の顔を見た。
「あの御客様……まことに申訳御座いませぬが只今、奥のお座敷が空きましたから、お上りになりましたらお手をどうぞ……御案内致しますから……」
小田原の出来事を思い出した平馬は返事が出来なかった。何やらわからぬ疑いと、たまらない好奇心が眼の前で渦巻き初めたので、無言のまま湯気の中から飛び出した。
「ヘイ……どうもお疲れ様で……お流し致しましょう」
揉み手をしながら小奇麗《こぎれい》な若衆が這入って来た。新しい手拭浴衣を端折《はお》っている。
「……ウーム……」
平馬は考え込んだまま背中を流さしたが、どうしても考えが纏まらなかった。肩癖《けんぺき》を打つ若衆の手許が、妙に下腹にこたえた。
女中に案内されて奥へ来てみると、小田原ほど立派ではないが木の香《か》がプンプンしている二尺の一間床に、小田原と同じ蝦夷菊《えぞぎく》が投入《なげいれ》にしてある。落款《らっかん》は判からぬが円相《えんそう》を描いた茶掛《ちゃがけ》が新しい。その前に並べた酒袋《しゅたい》の座布団と、吉野|春慶《しゅんけい》の平膳《ひらぜん》が旅籠《はたご》らしくなかった。頭の天辺《てっぺん》に桃割《ももわれ》を載せて、鼻の頭をチョット白くした小娘が、かしこまってお酌をした。済まし返ってハキハキと物云う小娘であった。
「……ここは茶室か……」
「ハイ。このあいだ、清見《せいけん》寺の和尚様が見えました時に、主人が建てました」
平馬は床の間の掛物を振り返った。
「あの蝦夷菊はこの家《や》の庭に咲いたのか」
「いいえ。あの……お連れの奥方様が、お持ちになりました」
「……ナニ……奥方様……」
小娘は無邪気にうなずいた。
「フーム。どんな奥方様か……」
小娘はちょっと眼を丸くした。
「旦那様は御存じないので……」
「……ウムム……」
平馬は行き詰まった。知っていると云って良いか悪いか見当が付かなくなったので……。
「……あの……黒い塗駕籠《ぬりかご》の中に紫色の被布《ひふ》を召して、水晶のお珠数《じゅず》を巻いた手であの花をお渡しになりました。挟箱《はさみばこ》持った人と、怖い顔のお侍様が一人お供《とも》しておりました」
「ウーム。不思議だ。わからぬな……」
「ホホホホホホホ……」
小娘は声を立てて笑った。冗談と思ったらしかった。
「旦那様は鯉のお刺身と木の芽田楽が大層お好きと、その御方《おかた》が仰言《おっしゃ》りました。それで兄《あに》さんが大急ぎで作りました」
平馬はモウ一度膳部を見廻したが、思わず赤面させられた。小田原で酔うた紛れに美味《おいし》い美味いと云って、無暗《むやみ》に頬張った事を思い出させられたので……しかし……その中《うち》にフト青い顔になると、急に盃を置いて、小娘の顔を見た。
「……ちょっと主人を呼んでくれい」
「ハイ……」
と云ううちに小娘は燗瓶《かんびん》を置いて立上った。ビックリしたらしくバタバタと出て行った。
「……これはこれは……まだ御機嫌も伺いませいで……亭主の佐五郎|奴《め》で御座りまする。……何か女中が無調法でも……ヘヘイ……」
「イヤ。そのような話ではない。ま……ズット寄りやれ。実は内密の話じゃがの……」
「ヘヘ……左様で御座いましたか。ヘイヘイ……それに又、申遅《もうしおく》れましたが、先程は、お連れ様から、存じがけも御座いませぬ……」
「アハハ。実はそのお連れ様の事に就いて尋ねたいのじゃが……」
「ヘエヘエ……どのような事で……」
「その、お連れ様という奥方風の女は、どのような人相の女であったろうか……」
「……ヘエッ。何と仰せられます」
「その御連様というた女の様子が聞きたいのじゃ」
「……これはこれは……旦那様は御存じないので……」
「おおさ。身共はその女を知らぬのじゃ」
「……ヘエッ。これはしたり……」
主人が白髪頭を上げて眼を丸くした。六十余りと見える逞ましい大男であった。投げ卸《おろ》し気味の髷《まげ》の恰好から、羽織の捌《さば》き加減が、どことなく一癖ありげに見える……。
平馬は思い出した。ここいらの宿屋の亭主には渡世人上りが多いという話を……。
平馬の想像は中《あた》っていた。
それから平馬が物語る一部始終を聞いているうちに老人は、両手をキチンと膝に置いた貫碌《かんろく》のある見構えに変った。平馬の顔の真正面に、黒い大きな眼玉を据えていたが、話が一通り済むと静かに眼を閉じて腕を組んだ。
「……迂濶《うかつ》な事を致しましたのう。その奥方様に私が自身でお眼にかかっておりましたならば、何とか致しようも御座いましたろうものを……若い者の鳥渡《ちょっと》した出入《でいり》を納めに参いっておりまする間に、飛んだ無調法を忰奴《せがれめ》が……」
「イヤ。無調法と申す程の事でもない……が……御子息というと……」
「ヘヘ。最前お背中を流させました奴で……」
「ああ。左様か左様か。それは慮外《りょがい》致した」
「どう仕りまして……飛んだ周章者《うろたえもの》で御座います。御仁体《ごにんてい》をも弁《わきま》えませず、御都合も伺いませずに斯様《かよう》な事を取計《とりはか》らいまして……」
平馬は又も赤面させられた。
「アハハハ……その心配は無用じゃわい。すでに小田原でも一度あった事じゃからのう。つまるところ拙者の不覚じゃわい……」
「勿体のう御座りまする」
「……しかし供《とも》を連れた奥方姿というと話があまり違い過ぎるでのう。世間慣れた御亭主に聞いたら様子が解りはせんかと思うて、実は迷惑を頼んだのじゃが」
「恐れ入りまする。お言葉甲斐もない次第で御座りまするが、只今のような不思議なお話を承りましたのは全くのところ、只今がお初《はつ》で御座りまする。何をお隠し申しましょう。私も以前は二足の草鞋《わらじ》を穿きました馬鹿者で、ヘイ……この六十年の間には色々と珍らしい世間も見聞きして参りましたが、それ程に御念の入りました狐《きつね》狸《たぬき》は、まだこの街道を通りませぬようで……」
「……ホホオ……初めてと申さるるか」
「左様で……表の帳場に座っておりましても、慣れて参りますると、お通りになりまする方々の御身分、御役柄、又は町人衆の商売は申すに及ばず、お江戸の御時勢、お国表の御動静《ごようす》までも、荒方《あらかた》の見当が附くもので御座いまするが……」
「成る程のう。そうあろうともそうあろうとも……」
「……なれども只今のような不思議な御方《おかた》が、この街道をお通りになりました事は天一坊から以来《このかた》、先ず在るまいと存じまするで……」
「うむうむ……殊に容易ならぬのはアノ足の早さじゃ。身共も十五里十八里の道は日帰りする足じゃからのう……きょうも焼津から出て大井川で、したたか手間取ったのじゃが……」
佐五郎老人はちょっと眼を丸くした。
「……それは又お丈夫な事で……」
「まして女性《にょしょう》とあれば通し駕籠に乗ったとしてものう」
佐五郎は大きく点頭《うなず》いた。
「さればで御座りまする。貴方様のおみ足の上を越す者でなければ、お話のような芸当は捌《さば》けるもので御座いませぬが……とにかく私がこれから出向きまして様子を探って参いりましょう。まだ左程、離れてはおるまいと存じまするで……」
「ああコレコレ。そのような骨を老体に折らせては……分別してくるればそれでよいのじゃが……」
「ハハ。恐れ入りまするが手前も昔取った杵柄《きねづか》……思い寄りも御座いまするでこの場はお任《ま》かせ下されませい。これから直ぐに……」
「……それは……慮外千万じゃのう……」
「……あ。それから今一つ大事な事が御座りまする。念のために御伺い致しまするが、旦那様は、そのお若いお方の讐討《あだうち》の御免状を御覧になりましたか……それともその讐仇《かたき》の生国《しょうこく》名前なんどを、お聞き及びになりましたか」
「いいや。それ迄もないと思うたけに見なんだが……」
「……いかにも……御尤《ごもっと》も様で、それでは鳥渡《ちょっと》一走り御免を蒙りまして……」
「……気の毒千万……」
「どう仕りまして……飛んだお妨げを……」
老亭主の佐五郎はソソクサと出て行った。……と思う間もなく最前の小娘が、別の燗瓶を持って這入って来た。ピタリと平馬の前に座ると相も変らず甲高《かんだか》いハッキリした声を出した。
「熱いのをお上りなさいませ」
平馬は何と
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