若侍に渡す僅かな隙《すき》を見て、同時に颯《さっ》と斬込んで来た。その太刀先には身動きならぬ鋭さがあった。
「……ハッ……」
と若侍が声を呑んだ。その眼の前を、平馬が撥ね上げた茶色の合羽が屏風《びょうぶ》のように遮ったが、それがバッタリと地に落ちた時、二人の浪人はモウ左右に泳いでいた。切先《きっさき》の間に身を飜した平馬が、一方を右袈裟《みぎげさ》に、一方を左の後袈裟《うしろげさ》にかけて一間ばかり飛び退《の》いていた。
俯向《うつむ》けに横倒おしになった二つの死骸の斬口《きりくち》を確かめるかのように、平馬はソロソロと近付いた。それから懐紙《ふところがみ》を出して刀を拭い納めると、
「このような者に止《とどめ》を刺す迄も御座るまいて……」
と独言《ひとりごと》を云い云い白い笠を目当に引返《ひっかえ》して来た。
松の雫《しずく》の中に立っていた若侍は、平馬に聞こえるほど深いため息をした。
「お怪我《けが》は御座いませなんだか」
「イヤ。怪我をする間合いも御座らぬ」
と笑いながら返り血一滴浴びていない全身をかえり見た。
「ありがとう存じまする。大望を持っておりまする身の、卑怯とは存じながら逃げる心底《しんてい》でおりましたところ、お手数をかけまして何とも……」
ちゃんと考えていたのであろう。若侍がスラスラと礼の言葉を陳《の》べたので、思い上っていた平馬は、すこしうろたえた。
「いや。天晴《あっぱ》れな御心懸け……あッ。これは却《かえ》って……」
と恐縮しいしい茶合羽と菅笠を受取った。
「お羨《うらやま》しいお手の内で御座いました。お蔭様でこの街道の難儀がなくなりまして……」
「……まことに恥じ入りまするばかり……」
言葉低く語り合ううちに松原を出た。そうして二人ともタッタ今血を見た人間とは思えぬ沈着《おちつ》いた態度で、街道の傍《わき》に立止まった。
明るい処で向い合ってみると又、一段と水際立《みずぎわだ》った若侍であった。外八文字に踏開《ふみひら》いた姿が、スッキリしているばかりではない。錦絵の役者振りの一種の妖気を冴え返らせたような眼鼻立ち、口元……夕闇にほのめく蘭麝《らんじゃ》のかおり……血を見て臆せぬ今の度胸を見届けなかったならば、平馬とても女かと疑ったであろう。
その若侍は静かに街道の前後を見まわしながら、黄色い桐油合羽の前を解いた。ツカツカと平馬の前に進み寄って、恭々しく、頭を下げた。
「……手前ことは江戸、下《しも》六番町に住居《すまい》致しまする友川|三郎兵衛《さぶろびょうえ》次男、三次郎|矩行《のりゆき》と申す未熟者……江戸勤番の武士に父を討たれまして、病弱の兄に代って父の無念を晴らしに参りまする途中、思いもかけませぬ御力添えを……」
「ああいやいや……」
平馬は非道《ひど》く赤面しながら手をあげた。
「……その御会釈は分《ぶん》に過ぎまする。申後《もうしおく》れましたが拙者は筑前黒田藩の石月と申す……」
「……あの……黒田藩の……石月様……」
といううちに若侍は顔を上げて、平馬の顔をチラリと見た。しかし平馬は何の気も付かずに、心安くうなずいた。
「さようさよう。平馬と申す無調法者。御方角にお見えの節は、お立寄り下されい」
「忝《かたじけ》のう存じまする。何分ともに……」
若侍は又も、いよいよ叮重《ていちょう》に頭を下げた。
「……何はともあれこのままにては不本意に存じまするゆえ、御迷惑ながら小田原の宿《しゅく》まで、お伴仰せ付けられまして……」
「ああ……イヤイヤ。その御配慮は御無用御無用。実は主命を帯びて帰国を急ぎまするもの……お志は千万|忝《かたじけ》のうは御座るが……」
「……御尤《ごもっと》も……御尤も千万とは存じまするが、このままお別れ申してはいつ、御恩返しが……」
「アハハ。御恩などと仰せられては痛み入りまする……平に平に……」
「……それでは、あの……余りに御情のう……おなじ御方角に参りまする者を……」
「申訳《もうしわけ》御座らぬが、お許し下されい。……それとも又、関所の筋道に御懸念でも御座るかの……慮外なお尋ね事じゃが……」
「ハッ。返す返すの御親切……関所の手形は仇討《あだうち》の免状と共々に確《しか》と所持致しておりまする。讐仇《かたき》の生国《しょうこく》、苗字は申上げかねまするが、御免状とお手形だけならば只今にもお眼に……」
「ああイヤイヤ。御所持ならば懸念はない。御政道の折合わぬこの節に仇討《あだうち》とは御殊勝な御心掛け、ただただ感服いたす。息災に御本望を遂げられい。イヤ。さらば……さらば……」
平馬は振切るようにして若侍と別れた。物を云えば云う程、眼に付いて来る若侍の妖艶《あでやか》さに、気味が悪るくなった体《てい》で、スタスタと自慢の健脚を運んだ。
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