振り返りたいのを、やっと我慢しながら考えた。
……ハテ妙な者に出合うたわい。匂い袋なんぞを持っているけに、たわいもない柔弱者かと思うと、油断のない体《たい》の構え、足の配り……ことに彼の胆玉《きもたま》と弁舌が、年頃と釣合わぬところが奇妙じゃ。……真逆《まさか》に街道の狐でもあるまいが……。
などと考えて行くうちに大粒になった雨に気が付いて、笠の紐《ひも》をシッカリと締上げた。
……いや……これは不覚じゃったぞ。「武士《もののふ》は道に心を残すまじ。草葉の露に足を濡らさじ」か……。ヤレヤレ……早よう小田原に着いて一盞《いっさん》傾けよう。
刀の手入を済ましてから宿の湯に這入《はい》ってサバサバとなった平馬は、浴衣《ゆかた》がけのまま二階に上ろうとすると、待ち構えていたらしい宿の女中が、横合いから出て来て小腰を屈《かが》めた。
「……おお……よい湯じゃったぞ……」
「おそれ入りまする。あの……まことに何で御座いますが、あちらのお部屋が片付きましたから、どうぞお越しを……」
「ハハア。身共は二階でよいのじゃが……別に苦情を申した覚えはないのじゃが……」
「……ハイ……あのう……主人の申付《もうしつけ》で御座いまして……」
「……そうか。それならば余儀ない」
平馬は鳥渡《ちょっと》、妙に考えたがそのまま、女に跟《つ》いて行った。女中は本降になった外廊下を抜けて、女竹《めだけ》に囲まれた離座敷《はなれざしき》に案内した。
十畳と八畳の結構な二間に、備後表《びんごおもて》が青々して、一間半の畳床には蝦夷菊《えぞぎく》を盛上げた青磁の壺が据えてある。その向うに文晁《ぶんちょう》の滝の大幅。黒ずんだ狩野派の銀屏風《ぎんびょうぶ》の前には二枚|襲《がさ》ねの座布団。脇息。鍋島火鉢。その前に朱塗の高膳と二の膳が並べてある。衣桁《いこう》にかかった平馬自身の手織紬《ておりつむぎ》の衣類だけが見すぼらしい。
お小姓上りだけに多少眼の見える平馬は、浴衣がけのまま、敷居際で立止まった。
「……これこれ女……」
女は絹行燈《きぬあんどん》の火を掻立てながら振返った。
「そちどもは客筋を見損なってはいやらぬか。ハハハ……身共は始終、この辺を往来致す者……斯様《かよう》な部屋に泊る客ではないがのう……」
「ハイ……あの……」
女は真赤になって行燈《あんどん》の傍《わき》に三指を突
前へ
次へ
全24ページ中5ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夢野 久作 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング