なくステッキの前にうなだれてしまった。この間、酔っ払った勢いでナグリ倒した救世軍士官の顔が、眼の前にチラ付いて来た。
「……ヒッ……ヒッ……ヒ……」
 山羊髯が突然に妙な声を出したので、吾輩はビックリして顔を上げた。まるで山羊のような声だと思いながら……その時に山羊髯はヤッと咽喉《のど》に絡まった痰《たん》を嚥《の》み下して、蚊の啼くような声を切れ切れに出した。
「……まあ……何か……記事になりそうな話を……一つ……取って来て御覧なさい……ヒッ……ヒッ……ヒヒ……ゴロゴロゴロ……」
 と云ううちに又一つ痰《たん》を嚥《の》み下して眼をショボショボさした。生きている甲斐も御座いません……と云いたいような表情をしたと思うと、そのままスウスウと煙のように立上って廊下に出た。廊下の向うの、板壁の向うの編輯室らしい方向へ消えて行った。右足が曲っているらしく非道《ひど》いビッコを引きながら……。
 吾輩は呆気《あっけ》に取られてその背後《うしろすがた》を見送った。頭の芯《しん》がジイーンと鳴り出したような気がした。
「……山羊髯のオジサン。ちょっと待って下さい。実はその現在一文もお金が無いのです。
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