旧五号の薄汚れた潰れ活字で、日清戦争頃の号外でも見るようだ。コンナ新聞が、まだ日本に残っているのかと思われる位だ。
しかし吾輩自身の姿を振り返ってみるとアンマリ大きな事も云えなかった。
東京一、日本一の東洋時報社で、給仕からタタキ上げた腕ッコキの新聞記者といえば、チョット立派に聞こえるかも知れないが、それがアンマリ腕ッコキ過ぎたのだろう。新聞記者としてアラン限りの悪い事を為尽《しつく》した揚句《あげく》、大正十一年の下半期に到って、東京中の新聞社からボイコットを喰った上に、警察という警察、下宿という下宿からお構いを蒙《こうむ》って逃げて来たんだから大したもんだ。モウ十一月というのに紺サージの合服と、汽車の中で拾った紅葉材《もみじざい》のステッキ一本フラットというんだから蟇口《がまぐち》の中味は説明に及ぶまい。タッタ今博多駅で赤い切符を駅員に渡したトタンに木から落ちた猿みたいな悲哀を感じて来た吾輩だ。三流か四流か知らないが、こんなボロ新聞社にでも押し込まなければ、押し込みどころのない身体《からだ》だ。
「ここを押……」と書いた白紙の下半分が「……して下さい」と一所《いっしょ》に切れ落
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