す訳にも行かない。……ええ糞。どうでもなれ……と思って玄関に立つと俥夫が呼鈴《よびりん》を押してくれた。出て来た小間使に名刺を渡して、案内さるるままに美事な応接間に通った。まるでアラビヤン・ナイトだ。
どうも美事なのに驚いた。青豆色《フーカスグリン》の天井。古黄金色《こもんいろ》の四壁。五色七彩の支那|絨氈《じゅうたん》。蛇紋石《じゃもんせき》の大暖炉。その上に掛かった英国風の大風景画。グランドピアノ。紫檀《したん》の茶棚。螺鈿《らでん》の大|卓子《テーブル》。ロココ風のクリスタル・シャンデリヤ。南洋材のキャビネット。黄緞子《きどんす》の長椅子《ソーファ》。安楽椅子《イージイチェア》。白麻ドロン・ウォークの窓掛などをキョロキョロと見まわしているうちに、フト傍《そば》の飾戸棚《キャビネット》の横に附いている小さな鏡の中に自分の顔を発見してギョッとした。頭髪《あたま》がまるで煙突の掃除棒だ。おまけに眼鏡を忘れて来ている面付《つらつき》のまずい事。分捕《ぶんどり》スコップに洋服を着せたってモウすこしは立派に見えるだろう。洗い直して来ようかしらんと思って、洗面所らしい処を見まわしているうちに背後の扉が音もなく開《あ》いた。スバラシイ幻影が音もなく辷《すべ》り込んで来て、しなやかに吾輩の前に立止まった。香水の匂いの棚引く中に恭《うやうや》しく頭を下げた。
何という生地《きじ》かわからぬ金線入《きんせんいり》、刺繍裾模様の訪問着に金紗《きんしゃ》の黒紋付、水々しい大丸髷《おおまるまげ》だ。上げた顔を見ると夢二式の大きな眼。小さな唇。卵型の腮《あご》。とても気品のある貴婦人だ。年齢なんかわからない位だ。
吾輩は二重三重に面喰って頭を下げた。
「僕は……私は……只今名刺を差上げました玄洋日報社の羽束という者ですが」
「わたくしは安島二郎の家内で御座います」
「あ……そうですか」
やっとわかった。安島二郎というのは当主、安島一郎子爵の弟で、現在、鎮西《ちんぜい》電力会社の重役をしている。有名な道楽者だ。兄の炭坑王の家《うち》に同居していると見える。
「……あの……何か御用で……」
そういう地声が、すこしシャ嗄《が》れているところをみると、どうやらこの夫人の素性がわかるようだ。無論、風邪を引いてるんじゃあるまい。
「……実は……その……」
と吾輩は眼を白黒した。来るんじゃなかったかな……と思った。元来、何しにここへ来たんだか吾輩自身にもわからないので、いわば好奇心に駆られて来たに過ぎない。とりあえずこれから用向きを考え出さなければならないのだが、コンナ婦人に改まられると、考えて来た用向きでも引込んでしまうのが吾々、男性の弱点である。
「只今。千代町の藤六|爺《じい》から電話がまいりましたが……生憎《あいにく》途中で切れましたが……」
ああ助かったと吾輩は思った。チャンスチャンス……。
「……あの娘がどうか致しましたので……」
「ヘエ。実はその……此村……ヨリ子さんが……」
「どうしたんですか一体……」
急《せ》き込んだ夫人の語気が、だんだんお里をあらわして来た。吾輩は思い切って打明けた。
「実は……その自殺未遂で……」
「エッ。自殺……」
この時の夫人の驚きようの美くしかったこと……市川|松蔦《しょうちょう》だって、こうは行くまい。細長い三日月|眉《まゆ》の下で、大きな瞳をゆっくりとパチパチさした。唇を半分開いてワナワナと震わした。白い両手を胸の上でシッカリと握り合わしてヨロヨロと背後《うしろ》へよろめいた。たしかに西洋映画の影響だ……と思ううちに、美しい幻影は、そのまま扉《ドア》を開いてスウと応接間の外へ辷り出た。
……が間もなくその幻影が、黒ずくめの風采堂々たる紳士の手を引いて這入って来た。四十四五の新調モーニングの白金《プラチナ》鎖だ。新聞で知っている電力重役、安島二郎氏だ。
二人は吾輩の眼の前に立並んで威厳を正した。瓦斯器修繕屋《ガスなおしや》然たる吾輩を二人で、マジリマジリと見上げ見下《みおろ》し初めた。何だか新派悲劇じみて来たようだ。
手に持った吾輩の名刺をチラリと見た安島二郎氏はブッスリと唇を動かした。
「私は安島二郎です。何か……その……此村とかいう娘が自殺したと云わるるのですか」
「そうです。あの下宿の二階でカルモチンを服《の》んで、目下手当中です。まだ生死不明ですが、とりあえず、お知らせに……」
二郎氏は今一度、吾輩を見上げ見下《みおろ》した。新聞記者の機敏なのに驚いたらしい。
「ハハア。どうして私の家《うち》と関係がある事が、おわかりになりましたかな」
「お迎えの人力車が参りましたので、それに乗って参りました」
夫婦は顔を見合わせた。今度は図々しいのに驚いたらしい。
二郎氏が貴族風に肩を一つゆす
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