り上げた。苦り切って夫人を睨み付けた。
「だから云わん事《こっ》ちゃない。余計な事をするもんじゃから……」
「イヤ。どうも済みません。その俥《くるま》を利用した僕が悪いんです」
「イイエ。貴方がお悪いのじゃ御座いません。主人が悪いのです」
「コレ。余計な事を……」
「イイエ……」
 夫人の眼がギリギリと釣上った。純然たる新派悲劇式の、キチンとした立姿になって主人と吾輩を等分に見比べた。鬢《びん》の毛が二三本ホツレかかってトテモ凄《すご》い。
 主人の二郎氏が吾輩にチラチラと眼くばせをした。早く出て行ってくれ……と云いたい意味がよくわかったが、吾輩は出て行かなかった。何だかわからないがトテモ面白かったので……。
 夫人は人形のように冷静に、唇を動かした。
「イイエ。申します。どうぞ新聞に書いて下さい。その方がいいのですから……」
 見る見る血の気《け》を喪った二郎氏は、万事休す……といった風に頭を抱えてドッカリと安楽椅子《イージイチェア》の中へ沈み込んだ。どうやらこの夫人のヒステリーは天下無敵のシロモノらしい。
 冷やかに主人の態度をかえりみた夫人は突立ったまま、両手を静かに揉《も》み合わせた。冴え切った微笑を含み含み天下無敵の科白《せりふ》を並べ初めた。
「わたくし、ちゃんと存じております。……あの此村ヨリ子と申します娘は鎮西電力のタイピストで、この安島の妾《めかけ》になっていた女で御座います。……安島の浮気はいつもの事で、相手も数限りない事で御座いますから、わたくしは何も……申しませんでしたけれども、主人が、あんまり見瘻《みすぼ》らしい処へ通いますから、家柄にも拘わると思いまして、それほど気に入った女《ひと》なら、当宅《うち》へ引取って召使ってはどうかと勧めましたけれども、安島は、そんな事はない。アレは妾でも何でもない。気の毒な孤児《みなしご》だから、人から頼まれて世話しているだけだと申します。タイピストを辞《や》めさせてまで世話する筋合いがドコに在るか存じませんが……ホホ……それで、わたくしは決心を致しまして、あの宿の主人と相談を致しまして、ヨリ子を今朝《けさ》から当宅《たく》へ引取って、わたくしの側で召使う事に致しましたが、あまり来方《きかた》が遅う御座いましたので、当宅《こちら》の自用車を迎えに出したので御座います。これは妻として主人の名誉を大切に致しますために、取計《とりはか》らいました事で、決して余計な事を致したおぼえ[#「おぼえ」に傍点]は御座いません」
 吾輩は恭《うやうや》しく夫人の前に頭を下げた。安島二郎氏はイヨイヨ椅子の中へ縮こまった。
「……多分……キット……主人がヨリ子に申し含めたので御座いましょう。ヨリ子は、それを信じて覚悟をきめたので御座いましょう。どんな事があっても安島家へ来てはいけない。奥さんに殺されるから……とか何とか……」
「……と……飛んでもない。そんな馬鹿な事を俺が云うか……そんな事……」
 安島二郎氏が突然に歪《ゆが》んだ顔を上げた。中腰になって両手を伸ばした。両袖のカフス・ボタンからダイヤの光りがギラギラと迸《ほとばし》った。
 夫人は冷然と尻目に見た。
「ヨリ子のような卑しい女が、何で自殺しましょう。貴方のお言葉を信ずればこそです。貴方に生涯を捧げる純な気持があればこそです。……貴方は安島一家の呪いの悪魔です。お兄様や、お姉様がお可哀そうです」
「コレッ。コレ……余計な事を……」
「申します。安島家のために、すべてを犠牲にして申します。わたくしはドウセ芸人上りの卑しい女です。けれども貴方のような血も涙も無い人間とは違います。……どうぞ新聞に書いて下さい。そうすれば主人は破滅します。その方が安島家にとってはいいのです。どうせ一度はここまで来る筈ですから……チット荒療治ですけど……ホホホ……」
「……イ……イケナイ。オ……俺には血もあれば……涙もあるんだ。あり過ぎるんだ……」
「オホホホホホ。ハハハハハハ……。血もあり涙もあり過ぎる方なら何故《なぜ》すぐに、あのヨリ子の処へ飛んで入らっしゃらないのですか。死にかけているのに……ネエ。そうでしょう。オホホ……」
 二郎氏は立上って来た。素焼のように白い、剛《こ》わばった顔に、絶体絶命の血走った眼が二つ爛々と輝いている。
「……馬鹿……ソレどころじゃないんだ。安島家の名誉を守らなければ……」
「……白々しい。名誉を思う人が、どうして、あんな女に手をかけたんです。早くヨリ子の処へ行ってらっしゃい……何を愚図愚図……」
 夫人に突き飛ばされて、よろめきながら二郎氏はポケットから一掴みの札束を出した。吾輩の鼻の先に突付けた。
「君は帰り給え。帰ってくれ給え。何でもない事だから……これを遣るから……サア……」
 吾輩は後退《あとじさ》りをした。

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